ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 12/22~12/31

2014-01-01 08:11:16 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 12/22~12/31

日々の聖句2013 12月22日(日)

主の律法は完全で、魂を生き返らせる。(詩19:8)
わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。(1ヨハネ2:3)
私の黙想:
後半の部分と切り離して黙想する。ここでは人間の喜び、悲しみを示す心に対する「命令(ビクデー)」、人間の「知る」という知的機能を示す「戒め(ミツバー)」に対して、人間の最深で「生きる(シェブ)」を示す「魂(ネフェッシュ)」に対する「律法(トーラー)」とが並べられている。この「生きる(シェブ)」には回復という意味が含まれており、人間はトーラーによって日々生き返させられることによって生きる。
パウロ以後のキリスト教における「律法理解」と詩編における「律法理解」とではかなり差があるようである。

日々の聖句2013 12月23日(月)

イスラエルは主によって救われる。それはとこしえに続く救い、あなたたちは世々とこしえに恥を受けることも、辱められることもない。(イザヤ45:17)
主の天使が夢に現れて言った。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20-21)
私の黙想 :
ペルシャの王キュロスによりバビロンからの解放が具体化する中でのヤハウエの言葉。15節~17節において偶像の神とヤハウエの神との違いが強調されている。イスラエルの民はキュロス王による解放を「いよいよ私たちの神ヤハウエの登場だ」と受け止めた。とくに私たちの目を引くのは15節の「あなたはご自分を隠される神」という言葉である。彼らは捕囚期間(約50~60年)、毎日、バビロンの豪壮な神を見て過ごした。その間、イスラエルの神はどこに行ったのかと馬鹿にされ、恥ずかしい日々を過ごしたのであろう。彼らはそれを「隠れた神」として受け止めていた。本日の聖句は、その神による宣言である。
イスラエルの神は姿を見せない。「見えない神」である。金属や木材によって彫刻され得ない神、具象化されない神である。16節では神を具象化する人々が恥を受けるとまでいわれている。人間の手によって刻み得ない神。人間による具象化を拒否される神。バビロンでの生活は偶像神との日々の戦いであったのであろう。捕囚からの解放(救い)は「偶像化されない神」の勝利である。

日々の聖句2013 12月24日(火)

主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。(詩68:20)
天の大軍が神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:13-14)
私の黙想:
「日々、わたしたちを荷ない」を口語訳では「日々に我らの荷を負われる主」、フランシスコ会訳では「わたしから荷を下ろされる」、新改訳は「日々、私たちのために、重荷を担われる主」と訳している。岩波訳ではほとんど翻訳を投げ出したようにこの節を「たたえられよ、我が主、日に日に。われらのため、神(エル)は担う、我らの救いを」とほとんどヘブライ語本文の語順のままに並べているだけです。祈祷書は見事に「日ごとにわたしたちの重荷を担われる神、わたしたちの救いである神に賛美」と訳している。
イエスは声を上げて言われた。「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。わが軛は易く、わが荷は輕ければなり」(マタイ11:28、文語訳)。イエスは町の大通りで人々に大声を上げて語られたのであろう。日本全国の教会の看板に最も多く書かれている聖句ではないだろうか。イエスはこの「一言」に全身全霊を傾けて語られた一句である。この言葉一句でどれだけの人々が教会の門を叩いたことだろう。現代的に言うならば、これこそが教会の「コピー」である。

日々の聖句2013 12月25日(水)

人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた。(詩66:12)
キリストの言葉:わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知り、彼らは従う。。わたしは永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪えない。(ヨハネ10:27-28)
私の黙想:
前半の句を口語訳、フランシスコ会訳では「人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた」と訳している。原文の直訳は「あなたは人を私の頭の上に乗せた」である。「駆り立てる」と訳しているのは新共同訳だけである。岩波訳では「文脈によれば何かの拷問らしいが類例がなく意味不明」と解説している。それこそ文脈によれば、10節、11節にこの言葉の内容らしいことが述べられている。「神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、」とあり、確かに拷問の情景である。神は私たちを迫害者の為すままにされた、という。そういう意味だとすると「我らは火の中、水の中を通った」という言葉も理解できる。水責め、火責め、まさに拷問である。この拷問を通して神の民は「豊かな所に置かれた」。
今日の降誕日の説教で遠藤周作の『沈黙』を取り上げる。キリシタンたちが厳しく棄教を迫られている時、神は沈黙し、彼らのするままにさせられた。なぜだ。何故神は助けてくれないのか。拷問される者は、拷問の意味を神に問う。拷問している者が何故私たちを苦しめているのかは十分理解できる。しかし神がそれを許しているのが理解できない。この詩はそれに対する「一応の答え」を出しているが、拷問を受けている者にとってそれは答えになっているのであろうか。私たちは「拷問から救出してくれる神」を信じているのか、「拷問されるがままに挿せている神」を信じているのか。どちらが私たちの神であり、私たちの信仰なのだろうか。

日々の聖句2013 12月26日(木)

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。(イザヤ37:16)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(エフェソ1:3)
私の黙想:
今日の聖句はユダの王ヒゼキアの祈りの中の一句。この祈りは当時の大国アッシリアが諸国を次々と滅ぼしている状況において、ヒゼキア王はアッシリア王からの最後通牒を受けとった。その手紙には「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない」(37:10)と書かれていた。実は、その前にヒゼキア王は預言者イザヤから次のようなメッセージを受け取っている。「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」(37:6-7)。
こういう非常に緊迫した状況の中で、ヒゼキア王は一つの決断をする。戦わないで屈服するのではなく、神を信じて徹底抗戦の構えである。それが今日の聖句である。その結果はイザヤの預言通りになる。
さて、これをそのまま現在の日本の状況に当てはめることができるか。神を信じるという「信仰」が徹底抗戦という行為になるのか。それは今、ここでは問わない。

日々の聖句2013 12月27日(金)

主よ、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。(士師5:31)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)
私の黙想:
女預言者デボラとバラクの物語。「エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い」(士師4:1)で新しい物語が始まる。「(敵は)鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけた」(4:3)。そこで女預言者デボラが登場し、彼女の指揮のもと軍師バラクが用いられてイスラエルを解放する。「神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった」(4:23)。今日の聖句はその事象を物語る勝利の歌。
士師記にはこの種の物語が次から次へと語られる。イスラエルの子供たちはこういう「痛快物語」を語り聞かされて育つ。日本でいうなら「蒙古軍の来襲と神風」の物語であろう。ただ異なる点は、物語の出発点がイスラエルが「主の目に悪とされる」状況において、主の罰としての外国支配と信仰に立ち返ることによる解放ということであろうか。物語の核の部分は「神に対する罪の自覚」である。
伝統的にキリスト者たちはこの種の物語を「霊的に」解釈して、自己の不信仰と懺悔、信仰への復帰の物語として受け止めている。まぁ、そうしか仕方がないであろう。

日々の聖句2013 12月28日(土)
主はアブラムに言われた。「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の源となる。」(創世記12:2)
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(ロマ12:14)
私の黙想:
こういう状況で、こういう聖句が目の前に出てくる。たしかローズンゲンは機械的な籤で選ばれている筈なのに、そして全世界のローズンゲンの読者が同じ聖句を読んでいる筈なのに、今日、この聖句が私に向かってくる。つい、3日前のクリスマスで公的な牧師としての仕事を隠退した私に、この聖句が語りかける。本当に不思議だ。他でもない。創世記12章のこの箇所で、私はキリスト者として生きることを決意したのであった。もう少し厳密にいうと、この聖句の直前にある言葉である。文語訳で読むと「汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さんその地に至れ」。今日の聖句は、この言葉を受けて、そうすればこうなると言う神の約束の言葉で、その内容(「祝福の源となる」)はあまりにも大きすぎるので、これは私のこととは違うと今でも思っている。ただその直前の「汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れよ」という言葉を聴き、私は「親がクリスチャンだからクリスチャンになる」という道を捨てて、私自身の問題、生き方としてこの道に入ったのである。その後の私の人生を振り返る時、文字通り、両親の信仰から出発し、~~教団と決別し、~~~に離れて現在に至る。もし、あの時、そのままそこに留まっていれば、それなりに経歴を積み、それだけの役割を果たしたであろうが、おそらくそれは「私の道」ではなかったであろう。

日々の聖句2013 12月29日(日)

わたしはいにしえの日々を思い起こしあなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。(詩143:5)
パウロの手紙:兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(ガラテヤ1:11-12)
私の黙想:
「思い起こし」「思い返し」「思いめぐらす」という三つの反省の言葉が並べられている。口語訳では「思い出し」「考え」「思う」。フランシスコ会訳では「しのび」「思い巡らし」「思いを潜める」。新改訳では「思い出し」「思い巡らし」「静かに考える」。3節、4節によると詩人は心身共にかなり弱り果て、精神的にも深く追いつめられている様子である。そういう状況において過去の日々を思い返している。そういう状況での「過去の思い起こし」は決して良いこと、楽しかったことではない。忸怩たる思い出であろう。結論は自分では出せない。出せたものではない。思い起こすことは、失敗であり、過ちであり、懺悔である。自分自身の評価としては「墓穴に下る」ような反省である。つまり「落第点」である。だからこそ神による評価を伺いたい。あなたは私の人生をどう評価なさるのですか。「敵」による評価はどうでもいい。今の私にとって知りたいのはただ神による「恵み深い」(10節)評価だけである。

日々の聖句2013 12月30日(月)

イスラエルの驕れる人々よ、大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。(アモス6:6)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:4)
私の黙想 :
冒頭の「イスラエルの驕れる人々よ」という呼びかけの言葉は聖書原文には見当たらない。おそらくこれは1節の後半を短縮した表現であろう。1節後半の翻訳に関してはフランシスコ会訳が最も分かりやすい。「諸国の中で最も偉大な国権力者たちよ」。これは一種の皮肉であろう。アモスはイザヤの少し前の北のイスラエルの牧童出身の預言者。彼は「あの地震(
前760年)」の2年前から預言活動をしている(1:1)。いわば庶民の声。彼はイスラエルの権力者の無能さ(6:2~3)と豪奢な生活(6:4~6)とを激しく糾弾している。
この部分を読むと現在の日本の状況をそのまま描いているようである。最後の「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない」。彼らは権力の座に君臨し、安逸をむさぼり、差し迫っている民族の危機に目を留めようともしない。

日々の聖句2013 12月31日(火)
主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(哀歌3:31~32)
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)
私の黙想:
今日の聖句の直前の句が凄い。「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。文語訳では「エレミヤの哀歌は」となっている。著者がエレミヤかどうかは資料不足であるが、今日の聖句は明らかにエルサレム神殿崩壊の前夜の状況におけるエレミヤの思想を凝縮した形で示している。
さて今日は2013年の最後の日、1年を振り返って「感謝」を捧げる日である。もちろん、そう簡単に感謝を捧げることができない1年であったと思う人もいるであろう。むしろ個人的内面的なレベルのことは様々であろう。しかし日本全体の状況としては外交、経済、政治問題等、先行きは全く不透明で、危険が一杯という感じである。来年以降どんな苦難が待っているのか非常に危惧する。まさにエルサレム神殿崩壊前夜の状況である。そう簡単に「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」とは言えない。むしろ、「主よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と祈りたい。再び「あの苦難の歴史」を繰り返したくない。近隣諸国とも友好的でありたいと願う。明日から迎える新しい年、わたしたち日本人の性根が問われる。

最新の画像もっと見る