ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/7/1~7/7

2018-07-14 10:03:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/7/1~7/7

2018 日々の聖句 7月1日(日)
わたしは怒ってあなたを打ったが今、あなたを憐れむことを喜ぶ。(イザヤ60:10)

(だから、いつでも心を引き締め、)身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(1ペトロ1:13)

私の黙想:
長いイスラエル史において、ヤハウェと民との関係は複雑に絡み合っている。今日の聖言においてはヤハウェの怒りに受けることも結構ある。ヤハウェの怒りは「打つ」という形に現れる。その時、民が反省し悔い改めるとヤハウェは憐れみ、ヤハウェは喜ぶという。ここまでは神と人間の一般論。しかしここで取り上げられている問題は少し違うようだ。
ここで問題になっていることは、「異邦の人々があなたの城壁を築きその王たちはあなたに仕える」という出来事であった。つまり自国の城壁の建設のために外国人を使ったこと、しかもそれらの外国人の王たちを自国の家来のように支配したことがヤハウェの逆鱗に触れた。一口で言って、異民族との関係、特に支配被支配の関係が問われている。ヤハウェの民であるイスラエルが他国を奴隷化のように支配したことがヤハウェの怒りの原因である。

2018 日々の聖句 7月2日(月)
あなたはわたしに命と恵みを約束し、あなたの加護によって、わたしの霊は保たれていました。(ヨブ10:12)

パウロの手紙:彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。(フィリピ2:27)

私の黙想:
旧約聖書の中でもヨブ記は特にユニークである。いろいろ読み方はあるが最も手っ取り早い読み方は主人公ヨブの弁論をまとめて読んでしまう。ヨブ記にはヨブ自身の弁論が8つある。ヨブの弁論の相手は神である。
(1) 6~7章、(2) 9~10章、(3) 12~14章、(4) 16~17章、(5) 19章、(6) 21章、(7) 23~24章、(8) 26章
今日の聖句は第2弁論の一部である。神は絶対であり、すべては神の配慮と支配によって生かされている。今日の聖句の面白さは、13節である。ヨブは言う。ヨブは自分の身に降りかかってきた不幸によって、神が何かを隠していることを知った。どんなに誠実に神を信じ誠実に生きていても神は私に拘わる重要なことを隠しておられる。それが良いこともあれば、ヨブの場合のように悪いこともある。

2018 日々の聖句 7月3日(火)
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。(詩116:12)

イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ:19)

私の黙想:
今日の聖句は口語訳がわかりやすい。「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」。文語訳は美しい。「我いかにしてその賜へるもろもろの恩惠をヱホバにむくいんや」。「報いる」のは私の方だ。それを冒頭の方で「主の報い」が出てくるからややこしくなる。人間と神との関係では常に神の恩恵が先行する。ッこれを「神の先行的恩寵」と呼ぶ。だから「主はわたしに報いてくださったという言葉は相応しくない。私の一生をかけても「主に報いることができない」、と告白せざるを得ない。

2018 日々の聖句 7月4日(水)
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。(詩103:1)

(イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、)弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

私の黙想:
主日礼拝における「讃美」を考える。本当に全身全霊の讃美になっているだろうか。日本では讃美歌(聖歌)を歌うときほとんどの会衆は歌集を開き歌う。初めての歌でもほとんど問題ない。何故ならほとんどの会衆は楽譜が読めるからだ。だから讃美歌集であれ、聖歌集でも問題ない。礼拝における讃美はそれでいいのだろうか。数年間にそのことを書いてブログに投稿した。少し長いがぜひ読んで、感想を述べていただきたい。
【聖歌考 <聖歌は楽譜を見ないで歌うもの>】
https://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/b8edfea7767096eb80382bbc5339b07b

2018 日々の聖句 7月5日(木)
主は生きておられる。わたしの神が言われる事をわたしは告げる。(歴代誌下18:13)

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。(2テモテ4:2)

私の黙想:
歴代誌、列王記を補う歴史書である。非常に複雑でひとすじなわでは治まらない。イスラエルが南北に分裂して以後、同じ神を信じ続けている。しかも神殿は南のエルサレムにある。時には共通の敵と戦わねばならない場合もある。
南のユダの王ヨシャファトと北イスラエルの王アハブの時代での出来事である。アハブ王に劦道戦線を提案した。しかし賢明なヨシャファト王は預言者たちの意見を求める。アハブ王は自分の意見に反対しない預言者400人を集めてヤハウェも反対ではないと主張する。。アハブ王はヤハウェの預言者たち400人を集めて、この連合はヤハウェの意に適うもだという。しかし賢明なヨシャファト王アサ王はアサ王に反対する預言者がいないのかと迫り一人の預言者が反対していることを知る。や減車はこれで預言書全員かどうか尋ねる。アハブ王はもう一人預言者が居るが「私は彼が嫌いだ」。と言う「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、いつも災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」。王は彼の預言を聞きたいという。この預言者は同盟することを反対し戦争をしてははならないという。ヨシャファト王は預言者ミカヤの意見に従う。
大勢に従う預言者は信じられない。

2018 日々の聖句 7月6日(金)
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。(詩94:90)

主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。(1ペトロ3:12)

私の黙想:
「耳を植えた」なかなか面白い表現だ。それなら「目を植えた」の方が実感に近く感じるであろう。目の方は「造った」と訳されている。「植える」と「造る」とはどう違うのか考えさせられる。
日本語の聖書ではほとんど「植える」と訳されている。例外的なのが祈祷書とカトリックの典礼委員会発行の『詩編』だけで耳だけではなく目も「与えた」と訳されている。これだけでも両者の近親性を思う。
耳については聖書に面白いエピソードが記録されている。ルカ22:50~51

2018 日々の聖句 7月6日(金)
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。(詩94:90)

主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。(1ペトロ3:12)

私の黙想:
「耳を植えた」なかなか面白い表現だ。それなら「目を植えた」の方が実感に近く感じるであろう。目の方は「造った」と訳されている。「植える」と「造る」とはどう違うのか考えさせられる。
日本語の聖書ではほとんど「植える」と訳されている。例外的なのが祈祷書とカトリックの典礼委員会発行の『詩編』だけで耳だけではなく目も「与えた」と訳されている。これだけでも両者の近親性を思う。
耳については聖書に面白いエピソードが記録されている。ルカ22:50~51


2018 日々の聖句 7月7日(土)
あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は命あるものの中にはいません。(詩143:2)

神の慈しみと厳しさを考えなさい。(ロマ11:22)

私の黙想:
今日の聖句、ストレート過ぎて、言い訳逃げ道がない。面白いのは口語訳では、「裁きにかけないでください」を「さばきにたずさわらないでください」と訳している。かなり意味が違う。祈祷書の訳はもっとハッキリしている。「あなたの僕を審かないでください」。
いろいろな裁判があるが、その内で、最も厳しいのが「宗教裁判であろう。ハッキリ言って人間には宗教のことで、人を裁くことは出来ない。昨日はオウム真理教で7人が死刑された。信仰の内容は不問にして、彼らが行った大量殺人が処刑の理由でろう。
今日のテキストは一種の宗教裁判であろう。詩人はこの裁判に関係しないでください、と祈っている。

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