ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ライトセオロジー(軽神学)のアイデア

2011-01-05 19:10:24 | ときのまにまに
今朝のローズンゲンには次の聖句が選ばれていた。「主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う」。これは詩18の50節の言葉である。この言葉について私は次のような言葉を添えた。
「この句には諸国民に対するイスラエルの民族的誇りの響きがある。誇りというより『自慢』に近い。神を信じることが自慢になるということは、危険な思想につながる。キリスト者の神信仰も同様。神を信じるということには謙虚さが要求される。自慢すべきことではないであろう」。
私のこの言葉には多少説明が必要であろう。その前に、先ず詩の言葉について一言注釈を加えておく。
先ず「あなたに感謝をささげ」は口語訳では「あなたをたたえ」と訳されている。「感謝をささげ」も「たたえ」も同じようなものだと言えば同じようなものである。問題は「感謝をささげ」たり、「たたえる」場が「国々の中」ということが非常に印象的である。その行為は直接神に向かっているのではなく、むしろ周辺諸国への顕示意識がかなり濃厚である。48、49節の「わたしのために報復してくださる神よ、諸国の民をわたしに従わせてください。敵からわたしを救い、刃向かう者よりも高く上げ、不法の者から助け出してください」。イスラエルの民は敵を尻目に、この感謝の歌を歌っている。
まさに、この点にイスラエルの神信仰、神賛美の原点があった。この信仰の危険性は神を独占するところにある。独占された神は普遍性を失う。「私の神」の行きつくところは、あなたから「あなたの神」を奪うことになる。これは神という言葉を正義という言葉に置き換えるともっと明瞭になる。私が正義を独占するとき、私以外のすべては不正義となる。私は正義の立場に立ち、あなたは不正義となる。不正義を抹殺することは正義となる。かくして「聖戦(ジハード)」という概念が成立する。つまり、神を独占する思想や信仰には危険性が伴う。
「あなたの神」と「私の神」とはどこかで通底している(かもしれない)。ひょとすると、「私の神」は「あなたの神」は同じ神かも知れない。残念ながら、私は「私の神」を汚れて歪んでいる「鏡におぼろげに映った」(1コリント13:12)姿しか見ていないし、通底しているかも知れないという「底」が見えない。だから「あなたの神」との関係はわからない。それが素直な神信仰であろう。
この神信仰は重厚な「伝統的神学」にはなじまないが、「軽やかさ」がある。いわば「ライト・セオロジー(軽神学)」と言うべきか。この言葉は「ライト・ノベル」の転用である。今朝の朝日新聞で「芭蕉に源流・軽さの境地」というコラムが掲載されている。筆者は新谷祐一氏で、氏は次のように言う。「軽みによって、芭蕉の俳句は世界の重みをとらえた」。「ライトノベルも、権威からの浮遊が原点に「他の文化は作り手が主導権を握っているに対し、ライトノベルでは読者の力非常に強い」。伝統的な神学は一握りの神学者が主導権を握って形成されてきた。それに対して、軽神学は仰者の信仰生活を基盤にするべきであろう。これは、まぁ今朝のローズンゲンと新聞記事を読んでの、非常に軽薄な思いつきに過ぎない。でも、何か面白そう。

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