ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 4/25

2010-05-02 05:32:05 | ローズンゲン
4月25日(日)
主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。(エレミヤ22:3)
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(ヘブル13:2)
わたしの黙想
預言者エレミヤの言葉は「正統派ユダヤ人」からはあまり歓迎されないであろう。今日の聖句は、文化的、宗教的、民族的、思想的立場を超えて有効である。ここに旧約聖書の魅力がある。新約聖書の言葉も愛唱聖句の一つ。親父も好きな言葉でした。耳にたこができるほど。
ドイツの教会暦では今日の主日(復活後第3主日)のテーマは「よろこべ」です。「新生」に始まり「主のあわれみ」が語られ「よろこべ」へと展開する。なかなか論理的。因みに今週の聖句は「キリストと結ばれた人はだれでも、新しく創造された者です.(2コリント5:17)

4月26日(月)
わたしの前に、すべての膝はかがみ,すべての舌は誓いを立て恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。(イザヤ45:23-24)
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天地のすべてが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえる。(フィリピ2:9,10-11)
わたしの黙想
神を賛美する言葉は少しぐらい大げさでも、まぁ、いいか。ともかく、OTの聖句もNTの聖句も壮大である。壮大さは漢詩以上。中国人もユダヤ人には負ける。日本人なんか相手ではない。一寸ぐらい曲を盗んだとして、それがどうしたという態度。いやいや両民族は凄まじい。

4月27日(火)
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに,わたしのために神殿を建てうるか。(イザヤ66:1)
いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。(使徒言行録7:48)
わたしの黙想
神殿至上主義者に対する批判。同じことが「聖書至上主義者」にもむけられし、「サクラメント至上主義者」にも向けられる。常に「神」は人間が作り出したものに収まらないということ。人間が考え出した「神観」も「神の安息の場」ではない。やはり預言者イザヤは凄い。

4月28日(水)
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。(民数記6:25)
キリストの言葉:あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。(ヨハネ20:21)
わたしの黙想
今日の聖句、聖職者の祝福の言葉としてなかなか美しい。使えそう。これに続く言葉も又良い。「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。「神が顔を向ける」ということは奥が深い。

4月29日(木)
あなたが、あなたの神、主のもとに立ち帰るなら、主はあなたを憐れみ、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。(申命記30:2,3)
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)
わたしの黙想
「主に立ち帰る」という心の中の決断が、外的環境を変え、生活そのものを新しくする。「気」の変化が「病」を癒し、「元気」になる。

4月30日(金)
主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。(エレミヤ20:9)
使徒たちは、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。(使徒言行録5:42)
わたしの黙想
そこまで激しくなくてもエレミヤの気持ちは理解できる。説教をするという行為は、一度でも経験した者にしかわからないと思うが、「止むにやまれない」、「押さえきれない」気持ちがあるし、説教をさせてもらえるのは喜びである。今はそれだけが「仕事」なので嬉しい。

5月01日(土)
あなたの口を開いて弁護せよ、ものを言えない人を、犠牲になっている人の訴えを。(箴言31:8)
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5:7)
わたしの黙想
「ものを言えない人」にもいろんな種類の人たちがいる。どちらが正しいか、間違っているかは別として、沖縄にも、徳之島にも、組織の力によって押さえ込まれ、言いたいことが言えない人たちがいる。各地のダム建設でも、教会という小さなの組織においてさえも。

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