ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/5/20~5/26

2018-05-26 09:29:59 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/5/20~5/26

2018 日々の聖句 5月20日(日)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てている。(イザヤ59:1~2)

イエスの言葉:わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。(ヨハネ16:7~8)

私の黙想:
この歳になって(82歳直前)になって白血病にかかってしまった。それから医者の言葉等いろいろ情報を集めて白血病のことが私なりにも分かってきた。ハッキリ言って,私は私なりに覚悟は出来ている。という段階で最も警戒していた感染症・肺炎を併発してしまった。油断でした。幸い主治医の迅速な対応で、最初の波は乗り越えることが出来そうです。これには、さすがの私もショックを受けました。
ちょうどのその時、今日の聖句が目に飛び込んできました。自分の寿命のことばかり考えても答えは出て来ない。そして神から頭をガーンと一発やられた感じがいたしました。私の知識、現代の医療の統計的事実、それは私が考えている「神の手の長さ」に過ぎない。当然、私の祈りも願いも私の想定内のことにすぎない。私には神の手の長さを知らない。
ここで、もう一歩踏み切ろうと思う。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」。それは私自身が定めた「神の手の長さ」に過ぎない。神の手は私の予想以上に長いのだ。何処までも届く長い手、全世界を包み込む大きな腕、後は神に任せよう。

2018 日々の聖句 5月21日(月)
弱者を虐げる者は造り主を嘲る。(箴言14:31)

あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。(フィリピ4:5、口語訳)

私の黙想:
福音主義の教会では御言葉を尊重する雰囲気は強いが、箴言やコヘレトに見られるようないわゆる道徳的格言類についての関心は弱いように感じる。もっと聖書におけも格言類の言葉も、一般的なと同様に、格言そのもの、実生活上のマニュアルとして大切にしていいのではないだろうか。たとえば、今日の聖句など、括弧の教室とか職場とか、労働組合の事務所など、いろいろなところに張り出しておく値打ちは十分にある。それを「聖書の言葉」だと書いてしまうと値打ちが半減する。
旧約聖書の格言類の良いところは、根本的なところで絶対者に足場を持っているということである。
因みに、今日の聖句を文語訳では「貧者を虐ぐる者はその造主を侮るなり。 彼をうやまふ者は貧者をあはれむ」。こういう聖句を国会議事堂などに張り出したい。これに逆らえる議員はいるだろうか。

2018 日々の聖句 5月22日(火)
主は弱り果てたわたしを救ってくださる。(詩116:6)

パウロの手紙:キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9)

私の黙想:
一応、誰が見ても、私はまさに「弱り果てたわたし」だろうと思う。この聖句、明らかに重病人のことを述べていると思われる。ところが、困ったことにご本人は「弱り果てた私」だとは少しも思っていない。
と少々疑問を懐いて口語訳を見ると、「わたしが低くされたとき」と訳されている。全然違うではないか。もちろん、一つの文章のこと前後とのバランスもあるだろうが、ここではそれは問題にならない。文語訳では口語訳と似ていて「われ卑くせられしが」、つまり原文は「弱り果てた」ということは知的レベルであったり、社会的地位であったりしている。新改訳は面白い。「私がおとしめられたとき」、これも知的にバカにされたときという意味らしい。フランシスコ会訳では「私が衰えたとき」で、これもどちらかというと素朴さが問題になっている。最もスッキリしているのは祈祷書の訳で「主は素朴な人の支え、わたしが衰えたとき救ってくださる」。岩波訳では「未熟な者たちを護る方、ヤハウェ、わたしが衰えると、わたしをお救いくださる」。調べれば調べるほど、新共同訳から離れていく。ここではわたしの病気など問題にしていない。そうなんです。わたしの病気など問題ではないのです。これが今日の聖句から受けた私のメッセージです。

2018 日々の聖句 5月23日(水)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(箴言16:32)

平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(ロマ14:19)

私の黙想:
忍耐とはアクションなき力である。ということで「忍耐」と「力」とを対比することはほとんど無意味である。同様に「自制の力」と「町を占領する」こととを比べているが、意味不明である。ということで口語訳を読むと明白になる。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」。本文を正しく訳しているかどうか私には判定する力はないが、少なくとも翻訳された文章の意味は明白である。文語訳は美しい。「怒を遅くする者は勇士に愈(まさ)り、おのれの心を治むる者は城を攻取る者に愈(まさ)る」。「まさる」という言葉に、「いよいよ」という言葉を漢字で書く「愈」が当てはめられている。この漢字のもともとの意味は「勝れている」である。しかもその勝れ方が「いよいよ、ますます」という動的状況を含蓄している。こういう漢字が用いられるところに文語約聖書の面白さがある。こういうニュアンスは現代訳では表現できない。岩波訳では「自制心と忍耐は賢者の特徴である」と註解している。
一言文句を言いたい。新共同訳の翻訳者および編集者は既存の翻訳を無視するという姿勢を自分たちの課題としているのだろうか。口語訳が良ければ、あるいはフランシスコ会訳が勝れていたら、わざわざ「変な日本を」と作り出す必要はないであろう。

2018 日々の聖句 5月24日(木)
いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。(詩32:1)

イエスの言葉:この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカ7:47)

私の黙想:
「いかに幸いなことでしょう」という言葉を文頭に持って来るのは、詩第1編を思い起こさせ、山上の説教におけいてイエスが語った八福を思い起こさせる。口語訳ではその言葉が文章の締め括りとして後尾に置かれている。「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」。わかりやすさにおいては口語訳が、文章の格調としては新共同訳に軍配があげられるであろう。フランシスコ会訳では「幸いである、咎が赦され、罪が覆われた人。幸いである、主に不正な者とみなされず、心に偽りのない人」。つい続きの部分を書き添えたくなる名訳である。新改訳は「幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪を覆われた人は」。「幸いなことよ」という言葉はチョット突き放した語感になる。
この聖句については、説明も、解説も不要である。ただ、「アーメン」と唱えるだけ、あるいは私も幸いな者になりたいと祈るだけである。

2018 日々の聖句 5月25日(金)
万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者にすべて高ぶる者に——彼らは低くされる——。(イザヤ2:12)

洗礼者ヨハネの言葉:悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。(ルカ3:8)

私の黙想:
今日の聖句、そのまま読んでも平凡な聖句だと思うだけである。ところが口語訳を併せて読むと面白い。「これは、万軍の主の一日があって、すべて誇る者と高ぶる者、すべておのれを高くする者と得意な者とに臨むからである」。「万軍の主の一日があって」という句は考えさせられる。長い歴史の中で、そういう日があるというのだ。関根訳は少しぎこちないが、工夫の跡が感じられる。「まことに万軍のヤハウェはひとつの日を持たれる」。いつもではない。どういう状況でか分からないが、ヤハウェはヤハウェ自身の判断により「御自分が動く日」を決めておられるという。
その日は「高い地位、権力」を持っている者にとっては悲劇の日である。それはまさに天と地がひっくり返る日である。権力者たちが崩壊し、被抑圧者たちが天下を取る。それを中国語では「革命」という。
この言葉を読んで思い起こすのは、マリアの賛歌である。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51~53)。
イエスの母マリアは、神の御子を宿したことを天使から伝えられたとき、この賛歌を唱えたという。イエスの誕生はそのしるしである。

2018 日々の聖句 5月26日(土)
主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。(詩141:3)

ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)

私の黙想:
今日の聖句は分かりやすい。翻訳にもほとんど問題はなさそうである。
日本の諺にも「口は災いの元」というのもありますが、ヘブライ文化ではそれがこのような祈りになるのは、なかなか面白い。特に口数の多い私などには、そのまま私の祈りでもある。
しかし口から出て来る言葉の本当の出所は口でも唇でもなく心です。したがって本当に守っていただきたいのは心である。そのことはこの詩人もよく承知しており、4節で次のように祈っている。「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように」。ここで用いられている「好餌(こうじ)」を口語訳では「彼らのうまき物を食べさせないでください」。今の日本、「旨き物」を食べさせられて、悪に共謀させられる者がいかに多いことか。その意味では「喋る口」だけではなく「食べる口」にも守衛が必要である。
目は心の窓、口は心の出口。

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