今日のローズンゲン 7月31日(日)
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。(民数記9:23)
あなた方は言う。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在しよう」と。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:13,15)
私の黙想
脱原発への道のりは決して簡単ではない。一度味わった「甘い汁」を手放すことはなかなかできない。一世代の交代が必要であろう。古代イスラエルの人々はエジプトでの奴隷集団から脱却し、自立した共同体になるまで40年間を要した。
今日のローズンゲン 8月1日(月)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。(ナホム1:7)
わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。(2コリント3:4)
私の黙想
ナホム書は敵意に満ちた政治的文書である。この文書が「聖書」に入っていることに異論をもつ人もいる。それ程この文書は現実的である。「主に身を寄せる」ということも現実的な被難民の心を反映している。今、避難所での生活を余儀なくされている人びとを思う。
今日のローズンゲン 8月2日(火)
神がわたしたちを憐れみ、祝福してくださいますように。(詩67:2)
パウロの手紙:兄弟姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ12:1)
私の黙想
聖書の宗教の最大の問題点は、人間を「(神によって)憐れまれる存在」と認識している点である。今日のパウロの言葉にしても「神の憐れみによって」という言葉は全く無用である。「わたしはあなたがたに勧める」でいい。人間は神の人格的対話(愛)の対象として存在する。
今日のローズンゲン 8月3日(水)
主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます。(詩138:6)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えんさい。(フィリピ2:3)
私の黙想
今日の詩編の言葉を「恵み」と感じるのも、「いやらしい」と考えるのも、人それぞれであろう。いずれにせよ、いつも、何処からでも「主に見られている」という感覚からは自由でありたい。放蕩息子にまでは行かなくても、親から自由になった息子でありたい。親としても、そう思う。
今日のローズンゲン 8月4日(木)
主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。(イザヤ28:29)
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ロマ8:30)
私の黙想
「主の計らい」とか「大いなること」というので、どういうことかと調べてみると、それは要するに農業技術である。農夫に農業技術を教えたのは「主」であるという。人間が生きるために必要な生産技術の源泉は神による。人類はこのことに気付いているのだろうか。
今日のローズンゲン 8月5日(金)
主はソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンは、「この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えた。(王上3:5,9)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(ヤコブ1:5)
私の黙想
「聞き分ける心」、いい言葉だ。いかにも日本語っぽい。「聞き分けの悪い子」というような言い方をする。他の言語ではどう表現されているのであろう。広辞苑では「聞いてその意を悟る。得心する。納得する」と説明されている。ここでは神や親等上殻の言葉でなく、民衆など下からの言葉を聞き分ける。
今日のローズンゲン 8月6日(土)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。(エレミヤ31:3)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)
私の黙想
神が「とこしえの愛」と言えば、それは本当に「とこしえの愛」なのだ。ただ人間は「とこしえ」ということを理解できない。状況がどのように変化し、関係が崩れたように見えても「とこしえ」という意味は変化しない。「とこしえ」には比喩がない。
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。(民数記9:23)
あなた方は言う。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在しよう」と。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:13,15)
私の黙想
脱原発への道のりは決して簡単ではない。一度味わった「甘い汁」を手放すことはなかなかできない。一世代の交代が必要であろう。古代イスラエルの人々はエジプトでの奴隷集団から脱却し、自立した共同体になるまで40年間を要した。
今日のローズンゲン 8月1日(月)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。(ナホム1:7)
わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。(2コリント3:4)
私の黙想
ナホム書は敵意に満ちた政治的文書である。この文書が「聖書」に入っていることに異論をもつ人もいる。それ程この文書は現実的である。「主に身を寄せる」ということも現実的な被難民の心を反映している。今、避難所での生活を余儀なくされている人びとを思う。
今日のローズンゲン 8月2日(火)
神がわたしたちを憐れみ、祝福してくださいますように。(詩67:2)
パウロの手紙:兄弟姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ12:1)
私の黙想
聖書の宗教の最大の問題点は、人間を「(神によって)憐れまれる存在」と認識している点である。今日のパウロの言葉にしても「神の憐れみによって」という言葉は全く無用である。「わたしはあなたがたに勧める」でいい。人間は神の人格的対話(愛)の対象として存在する。
今日のローズンゲン 8月3日(水)
主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます。(詩138:6)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えんさい。(フィリピ2:3)
私の黙想
今日の詩編の言葉を「恵み」と感じるのも、「いやらしい」と考えるのも、人それぞれであろう。いずれにせよ、いつも、何処からでも「主に見られている」という感覚からは自由でありたい。放蕩息子にまでは行かなくても、親から自由になった息子でありたい。親としても、そう思う。
今日のローズンゲン 8月4日(木)
主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。(イザヤ28:29)
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ロマ8:30)
私の黙想
「主の計らい」とか「大いなること」というので、どういうことかと調べてみると、それは要するに農業技術である。農夫に農業技術を教えたのは「主」であるという。人間が生きるために必要な生産技術の源泉は神による。人類はこのことに気付いているのだろうか。
今日のローズンゲン 8月5日(金)
主はソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンは、「この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えた。(王上3:5,9)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(ヤコブ1:5)
私の黙想
「聞き分ける心」、いい言葉だ。いかにも日本語っぽい。「聞き分けの悪い子」というような言い方をする。他の言語ではどう表現されているのであろう。広辞苑では「聞いてその意を悟る。得心する。納得する」と説明されている。ここでは神や親等上殻の言葉でなく、民衆など下からの言葉を聞き分ける。
今日のローズンゲン 8月6日(土)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。(エレミヤ31:3)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)
私の黙想
神が「とこしえの愛」と言えば、それは本当に「とこしえの愛」なのだ。ただ人間は「とこしえ」ということを理解できない。状況がどのように変化し、関係が崩れたように見えても「とこしえ」という意味は変化しない。「とこしえ」には比喩がない。