ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/06/26~07/02

2016-07-02 08:29:22 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/06/26~07/02

2016 日々の聖句 06月26日(日)
恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。(gen.26:24)

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。(act.4:13)

私の黙想:
毎朝、ローズンゲンを開くとき今朝はどういう御言葉が出てくるのかとワクワクしながら聖書をめくる。今朝は聖書では一見「ありふれた」聖句である。しかし、これは決して「ありふれてはいない」。アブラハムの息子イサクが美しい妻リベカを得てアブラハムの家を出て、家庭を持った。気の弱いイサクはものすごく不安であったのだろう。その地方の人たちがリベカを奪いに来るのではないかとビクビクしてたようである。それでリベカを「妹」だと言いふらしていた。そこに登場したのがその地方の権力者アビメレクである。若い二人が戯れているのを見て、彼はリベカに一目惚れをしてしまった。早速、リベカのことを調べさせると、イサクの妹だという触れ込みであるが、その戯れ方が尋常ではない。アビメレクはイサクを呼び、何故嘘をつくかと糾す。そんなことがあって、アビメレクはイサク夫婦をその力追い出す。また、移転先では「井戸の件」でゴタゴタして、そこから出ていかなければならなくなる。
要するに、この美しい若夫婦、落ち着き先がない。こういう不安の中で、夜、ヤハウェがイサクに現れて述べた言葉が今日の聖句である。一言でまとめると、この地上に「居場所がない」不安の中でのヤハウェの「共にいる」という宣言である。
「居場所」がない不安、「故郷の喪失」、それはまさに現代社会のきびしい現実である。どこに住もうとそこを自分の居場所にする。それは「神共にいます」という信仰の他ならない。(これを書きながら、現代社会における特有の「教会喪失」という問題を思うが、それは別の機会に考える)。

2016 日々の聖句 06月27日(月)
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。(ps.31:24)

「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。(mk.12:32~33)

私の黙想:
「主の慈しみに生きる人」とは、どういう人であろう。例えば「主」を「親」に置き換えると「親の慈しみに生きる」とは、どういうことであろうか。その場合の「慈しみ」とは単純化したら「愛」ということになるだろう。親が子供を愛し、子供が親を愛する。何か「当然すぎる」感じがする。
口語訳によると、「すべての聖徒よ」と訳されている。かなり違うように思う。フランシスコ会訳では「すべて忠実な者よ」、新改訳は「すべて、主の聖徒たちよ」。岩波訳では順序を変えて「ヤハウェを愛せよ、すべて彼に忠実な者たち」。順序を変えただけでかなりニュアンスは変わる。ここでの神と人間との関係を具体的に述べているのが、それに続く言葉である。新共同訳では「主は信仰ある人を守り傲慢な者には厳しく報いられる」。口語訳は面白い。「主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる」。ここで一寸、面白いことをいうと、この「真実な者」とはヘブライ語では「アーメンな者」で、神さまは「アーメン(な者)」を守られる。日本ではキリスト者のことを「あいつアーメンだ」という言われ方をする。その時、この聖句を思い起こしたら良い。

2016 日々の聖句 06月28日(火)
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。(isa.55:12)

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(jh.14:27)

私の黙想:
今日の聖句を読んで、先ず頭に浮かんだことは、今週の日曜日の福音書のテキストである。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(lk.9:51)。イエスのエルサレムの旅たちである。イエスにはエルサレムにおいてご自分の身に起こることをよく知っておられ、そこに向かうことを決意される。それは苦難の道であり、残虐な死である。
ルカはそれをあえて「天に上げられるとき」という。なぜなら、それこそがご自分の使命の達成であり、それが神の意志の実現だからである。今日の聖句の直前には「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす」とある。私たちに与えられた「使命」は必ず実現される。それが実現されることが喜びである。

2016 日々の聖句 06月29日(水)
あなたは食べて満足し、(良い土地を与えてくださったことを思って、)あなたの神、主をたたえなさい。(deut.8:10)

神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(act.14:17)

私の黙想:
荒野における40年の彷徨生活を終え、約束の地に入ったイスラエルの民へのモーセの演説。豊かであることそれ自体は罪ではない。悪ではない。私たちは少しでも現在の生活より豊かに成り立ちと願って生きている。荒野における「マナ」も確かに美味しかったし、満腹した。しかし、「乳と蜜の流れる地」で、自ら働いて得た食べ物は比べものにならない。豊かであることは良いことだ。問題は次のことである。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(17~18)。この言い方を少し変えると、将来、子孫たちが豊かな生活が出来るようになるために、神との約束を信じ、努力してきた結果である。先祖たちの信仰と努力の結果が私たちの「富を築く力」である。いま、私たちがなすべきことは、道を間違い得ることなく、子孫が「食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、神をたたえることができるように」することである。

2016 日々の聖句 06月30日(木)
わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。(isa.57:18)

十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(mk.6:12~13)

私の黙想:
今日の聖句は17節からの続き。「わたしは彼の道を見た」のその彼の道とは「彼は背き続け、心のままに歩んだ」を受けている。この句、口語訳では「彼はなおそむいて、おのが心の道へ行ったと訳されている。フランシスコ会訳では丁寧に「彼は背を向け、自分の思う道を歩み続けた」と訳している。これはイスラエルの歴史を述べていることは間違いない。
しかし、個人の人生に置き換えて読むことも出来る。知らず知らずとはいえ、「自分の思う道」、自分の人生とは自分のものであり、自分の「心のままに歩く」ことが「主体性である」と思って歩いている。そのこと自体が「神に背くこと」だという自覚がない。「就活」と言い、「婚活」という。近頃では「終活」まである。いろいろな可能性の中でどういう出会いがあってもそれを受けられるように「準備」するのはことは良い。しかし、その道を見ている方がおられる。ハラハラしながら、彼は見ている。ここで、もう少しゆっくり歩けば良いのに。あの角を曲がれば休めるよ、と上から見ている方がおられる。人間はいろいろ心配し計画を立てるが、それを実現するのは神である。

2016 日々の聖句 07月01日(金)
寄進ができるとしても、わたしなど(果たして)何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(1chr.29:14)

あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。(2cor.8:14)

私の黙想:
先ず「寄進」という言葉について。口語訳では「ささげること」、フランシスコ会訳では「寄進した」、新改訳はかなり苦労して「みずから進んでささげる力を保つ」と訳している。ちなみに文語訳では「自ら進んで献ること」、原語はかなり日本語にするのに難しいのであろう。要するにここはダビデが神殿建築のために寄付を求めている場面である。通常の「ささげもの」や「税金」、いわゆる「什一献金」ではない。神殿建築というイスラエル史における最初の大事業のために建築資材や労力や資金を寄付するということである。ここでは寄付された「金額」が記録されている。相当な額である。ダビデ自身もそれ相応の対応をしたことであろう。日本語では「寄進」という言葉を使いたくなる。広辞苑では「社寺などに金銭、物品を寄付すること」と説明されている。現実に日本の教会では「寄進」という言葉を用いない。「献堂献金」とか「特別献金(品)」という。だから「寄進」という言葉を使いたくなかったのであろう。その意味では、新共同訳とフランシスコ会訳は、一歩踏み込んでいる。その勇気は買っていいだろう。

2016 日々の聖句 07月02日(土)
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました。(ps.30:4)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。(col.1:13)

私の黙想:
細かいことにこだわると、(あまり建設的ではないが)、「墓」と「墓穴」とは同じか。皆さんどう思いますか。面白いことにフランシスコ会訳も新改訳でも単純に「穴」と訳している。岩波訳では穴は穴でも「坑」という字をあてている。ここの文脈では「陰府から引き上げ、穴に落ちることから免れさせた」ということで、穴と陰府との関係がどうなっているのか、考えさせられる。「穴に落ちるのを危うく陰府で止めて引き上げる」ということらしい。つまり、この「穴」は陰府よりもっとした、それより下はないという「底」、いや底なしの穴、古代に人の考える「宇宙」の外。それは「墓」何というものではない。墓はまだこの宇宙内にある。存在しているのか、存在していないのかわからないが、ともかく私たちの意識の外、それがここでいう「穴」らしい。日本人の意識においては「墓」は「草葉の陰」である。私たちの生きている世界である。だから「墓」というのもおかしいし、「穴」というのも言葉不足。それを合わせて「墓穴」と訳したら、まさに墓穴を掘ることになる。

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