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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/05/10~05/16

2015-05-16 08:54:11 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/05/10~05/16

2015日々の聖句 05月10日(日)
そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。(エゼキエル34:30)
神がイエス・キリストによって——この方こそ、すべての人の主です——平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。(使徒言行録10:36)
私の黙想:
とんでもない牧者たちがいた者だ。自分に責任のある羊の群れを食い物にしている。2節から22節まで彼らの悪が縷々述べられている。牧者たちがその責任を放棄し、自分の私利をむさぼるようになると、羊の間でも強い者が弱い者をいじめることが起こってくる(18節)。その間も、ヤハウェは影で働き、なんとか問題を解決しようとするが、事態はますます悪くなる。とうとう、ヤハウェも我慢ができなくなり、「我が僕ダビデ」を羊の群れの中に送り、彼を「君主」にして、悪い牧者たちを追放し、羊の群れを治めさせる。これがヤハウェの救済の約束である。
今日の聖句は、その結果が述べられている。「そのとき」、この「そのとき」という言葉には一種の寂しさが感じられる。「そのとき」にならないと、彼らの間に「わたし」がズーッと共にいて、影で働き、彼らをなんとか守っていたことに気が付かないのか、と「主なる神」が言われる。

2015日々の聖句 05月11日(月)
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。(イザヤ40:2)
神の言葉:恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)
私の黙想:
今日の聖句、これぞ福音だ。あまりにも有名な第2イザヤの冒頭の言葉、背景の説明は不要であろう。ただ1点、なぜここで「エルサレムの心」なのだろう。「エルサレム」でいいではないだろうか。口語訳も文語訳も「懇ろにエルサレムに語れ」、新改訳は「エルサレムに優しく語りかけよ」。あまりにも大きなニュースなので、それを伝える者は興奮しすぎないように、という注意書きのように思われる。それを「心に」というのと少し違うのではないか。それと関連するのかしないのか、「苦役の時は今や満ち」を口語訳、文語訳では「服役の期は終わり」、新改訳では「労苦は終わり」、フランシスコ会訳では「服役の時は満ちた」。
わたしのイメージとしては、このビッグニュースは、実は大声で宣伝されたのではなく、密かに、秘密に、口から口へと、耳から耳へ、噂のように広がっていったのではないだろうか。ここで「慰めよ」と命じている人物は男性複数形だと言われている。ビッグニュースはマスコミを通してではなく、ミニコミで伝えられる。実は福音は、街宣車のようにスピーカーでがなり立てて伝えられるのではなく、一人ひとりの信徒のハートからハートへ伝えられる。ここまで言ったら、言い過ぎか。

2015日々の聖句 05月12日(火)
ギデオンの言葉:神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。(士師記6:13)
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(1コリント13:12)
私の黙想:
イスラエルにまだ王制でなかった頃、当然軍隊もなかった頃、収穫時期になるとイスラエルは外敵から襲われ、したい放題に略奪されていた。ある日、ひとりの農民・ギデオンに天使が現れ、「勇者よ、主はあなたと共におられます」と言う。今日の聖句はそのときのギデオンのセリフである。このセリフは生々しい。厳しい現実の中で、「神が居られるのなら、なぜ・・・・」と叫びたくなる。これは哲学的問いではない。自力ではどうしようもない苦難の中での、神に向かっての「叫び」である。
その時のギデオンは外敵の来襲に備えて、「酒樽の中に隠れて」、農作業をしていたという。外敵の襲来を恐れている一人の農民に過ぎない。その彼に天使は「勇者よ」と呼びかける。そう呼びかけられても、ギデオンは自分が勇者だとは思っていないから、気が付かない。現れた天使に向かって、現状の不満をぶちまける。それに対して天使は同じセリフを繰り返す。「勇者よ、主はあなたと共におられます」。このセリフは、一つの秘密が込められている。「主があなたと共におられるから、あなたは勇者である」。そして、天使は神の言葉をギデオンに告げる、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」。何という言葉であろう。これがギデオンの召命である。「わたしがあなたを遣わすのではないか」(14節)。
わたしは今、ヨハネ福音書を読み返しながら、この「遣わす」という言葉について考えている。イエスを神から「遣わされた者」と信じることが、信仰の核心である。

2015日々の聖句 05月13日(水)
主の言葉:わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。(イザヤ49:6)
イエスの言葉:あなたがたは、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)
私の黙想:
今日の聖句の直前に「だがそれにもまして」という言葉がある。つまり、今日の言葉は、何らかの出来事があって、それよりももっと重要なこととして今日の聖句が語られているのである。この「なんらかの出来事」とはバビロンの捕囚からの解放である。弱小のイスラエル民にとっては想像を絶する大事件である。これに匹敵する出来事があるとしたら「出エジプト」ぐらいであろう。この出来事の真の目的、いや、それよりももっと重要なこととしてイスラエルの民(ユダヤ民族)に課せられた任務が今日の聖句である。自力で脱出もできなかった、今にも消滅しそうな弱小の捕囚民が祖国に復帰するというだけでも大事業なのに、それにもまして、「国々の光」となる。いや、世界の隅々に至るまで「光とならなければならない」。
その後、果たしてユダヤ民族はそうなったであろうか。
初期の教会の信徒たちは、イザヤ書のこの言葉を「自分たちの課題」だと認識したようである。

2015日々の聖句 05月14日(木)
主は多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。(イザヤ2:4)
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。(ルカ1:78~79)
私の黙想:
軍備廃棄、戦争放棄、積極的平和主義についての有名なテキストである。これは主の戒め(意志)である。これは主が「多くの国々の争いを裁いた」結論である。ただ単なる「理想論」ではない。この戒めの根っこには戦争の無意味さ、虚しさ、不経済がある。「剣と槍」とが何も産み出さないという経験がある。人類の文化を形成するエネルギーは「鋤と鎌」から生まれる。
「この国は」という言葉で始まる7節と8節、これが現実である。この現実の結果が、9節の前半である。「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる」。戦争状態における最大の罪、それは人間の価値が最も低くされることである。戦争状態においては、人間は「軍馬」以下のモノとされる。神が「許せない」と言われる状況がこれだ。

2015日々の聖句 05月15日(金)
主の言葉:どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。(申命記5:29)
食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。(ヘブル13:9)
私の黙想:
民のヤハウェに対する信仰告白(24~27節)を聞いて、ヤハウェがモーセを通して民に語った約束の言葉:鍵になる言葉が「この心」、そしてこの心を「持ち続ける」こと。キリスト者に当てはめると「洗礼のときの誓い」(祈祷書278頁)を一生持ち続けること。信仰生活とはこの誓約を持続すること。信仰の力はこの「持ち続ける」と言うことから生まれる。持続が力である。
「この心を持ち続ける」という訳語は新共同訳だけのものであるが、「つねに」「いつまでも」よりもピタッとくる。「信仰の継承」ということがしばしば語られる。その答えはここにある。自分の一生において「持続」しない信仰が、どうして子孫に「継承」されるだろうか。

2015日々の聖句 05月16日(土)
主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。(1サムエル12:24)
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。(テトス2:14)
私の黙想:
上司から大変な秘密を打ち明けられた部下は、その秘密を守るだけではなく、その上司の信頼に応えるために誠心誠意仕えなければならない。それが上司と部下との信頼関係である。
1サムエル12章はややこしい。実は状況そのものが神政政治から王制に移行する過渡期でややこしい。民の強い希望によってイスラエル国に「王」が与えられた。さて、これから民は王に仕えるのかヤハウェに仕えるのか。これがこれ以後のイスラエル史の大きな課題となる。預言者サムエルの立場は、民が「王」を求めたということ自体が大きな罪であると考えている。その王がヤハウェに絶対服従している間はほとんど問題はないが、その王がヤハウェに従わないときどうなるのか。ここでサムエルに示された「偉大なこと」とは何か。実は、ここで新共同訳と口語訳とで重要な違いがある。口語訳では「主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたか」で、新共同訳は「主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたか」である。口語訳ほかほとんどの日本語訳では主がなさった過去(歴史)のことであり、新共同訳だけは未来志向である。どちらが正しいのかは、ここでは不問にする。ここでは要するに、たとえ王制になったとしても、イスラエルに対するヤハウェの姿勢、つまり「神政政治」は変わらないということである。「このことだけは肝に銘じておけよ」とサムエルは民に語る。もし、このことを忘れるようなことがあれば、「主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(25節)。

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