ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 6/26

2011-07-04 08:13:09 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 6月26日(日)
「お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:32)
主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。(ヤコブ5:16)
私の黙想
全ての不幸の原因を先祖の罪に帰したり、他人の責任として押し付けたり。そこからは何も生まれて来ない。全てを水に流して(いかにも日本的)、原点に立ち帰り、新しく出発し直せ。間違いに気が付いたら、その時点で元の所まで戻る、これが山歩きの原則。そして人生の原則でもある。

今日のローズンゲン 6月27日(月)
主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。(詩97:10)
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)
私の黙想
「神に逆らう者の手から助け出してくださる」というような言葉がありがたくなるような状況は不幸だろうな。実感がない。そういう状況にならないように祈り、努めたいものだ。一寸間違うとそうなる恐れは常にある。

今日のローズンゲン 6月28日(火)
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。(イザヤ57:19)
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)
私の黙想
今日の聖句で「平和」と訳されている単語、「平和」と訳すから文章が変になる。ここでは口語訳のように「平安」と訳すべきである。不安とは無事であるということとは異なる。「今、ただちに」問題がなくても将来の不幸を予感するとき平安はない。今、日本人全員が求めているのは平安である。この平安は神から来るというよりも私たちが作り出すべきものである。

今日のローズンゲン 6月29日(水)
あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方。(詩142:6)
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。(ルカ20:38)
私の黙想
現世において神が私の「取り分」だと言われても、有り難いのか、迷惑なのか。祈祷書の訳では「あなたはわたしの寄りどころ、わたしの命のすべて」と訳している。この方がスッキリする。多少観念的だが、いずれにせよ神に関することだ。

今日のローズンゲン 6月30日(木)
主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。(イザヤ25:1)
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。(エフェソ3:20-21)
私の黙想
ここでの「驚くべき計画」とはヒゼキア王の時のアッシリア軍の突如の撤退(列王下19:35)を指しているのであろう。しかし、この程度のことで驚いてはならない。神はもっと凄いことをなさる。私はここで「脱原発」のことを頭に描いている。電力会社の株主総会を見ていると原発推進派の強さを感じる。まるでアッシリアの軍勢のようである。しかし、戦況は一晩でひっくり返った。

今日のローズンゲン 7月1日(金)
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。(ハバクク2:20)
イエスは祈るためにひとり山にお登りになった。(マタイ14:23)
私の黙想
一般にユダヤ人は冗舌だと言われている。しかし、ハバクク書では預言者ハバククの「沈黙する神」への嘆きと、民に対する神の「沈黙せよ」という命令とが対応している。沈黙における「呼応関係」、祈りにおいては「雄弁は銀、沈黙は金」である。イエスの祈りはほとんど沈黙。

今日のローズンゲン 7月2日(土)
主よ、生死にかかわるこの争いを、わたしに代わって争い、命を贖ってください。(哀歌3:58)
このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっています。(2コリント3:12)
私の黙想
悲劇の預言者エレミヤの悲劇とは、世論との戦い。権力に誘導された世論、あるいは世論を後ろ盾にした権力との戦いは厳しい。「バビロン王に服従せよ」というエレミヤの預言は売国奴として民衆から拒否された。

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