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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/06/11~06/17

2017-06-17 11:11:07 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/06/11~06/17

2017 日々の聖句 6月11日(日)
主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。(詩147:15)

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)

<一言>
今日の聖句では、「主の仰せ」と「御言葉」とが同一であることを前提にしている。要するに、ヤハウェが何かをお命じになると、その命令は凄いスピードで世界に伝達される、ということであろう。昔は、それは大変なことで、奇跡に等しいし、まさに「神業」なんだろう。でも、現代では、それこそ「当たり前」のことになっている。考えて見ると、実に恐ろしいことだ。ローマ教皇がバチカンで何かを語れば、それは瞬時に世界の隅々に伝達される。アメリカの大統領が何かをツイッターで呟けば、それはほとんど同時に何千万人の人がそれを受け取る。それが真実のメッセージか、フェイクか確かめる時間もない。ところが、まさにところが変われば、日本人のほとんどは世界の現実から遠く切り離されている。マスコミが情報を隠し、歪めているからだ。まぁ、知らないからハッピーだという面もないことはない。しかし真実は時間差を持って必ず明らかにされる。むしろ、今の時代、「速さ」より「確かさ」が求められている。ということで、今朝の黙想は終わる。

2017 日々の聖句 6月12日(月)
わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。(イザヤ51:12)

人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。(1ペトロ3:14~15)

私の黙想:
イザヤ書51章は「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」という言葉で始まる。徹底的に「私の方に目を向けよ」というメッセージが繰り返される。そして主に目を注ぐことは同時に、自分自身の出自を見るということに通じる。神の偉大さを語るその言葉は、同時に人間の弱さ、限界を語る。この二つ方向は一つである。人間は人間の間で、強さ、弱さを測り、正義、不正義を語る。しかし、目を神に向けると、人間の間における諸問題は吹っ飛んでしまう。信仰者は、神を見て、人間を見る。そうすることによって人間と人間との間での諸問題が、つまらないことに見えてくる。しかし、それは神への逃避ではない。人間・間における諸問題に埋没しないで、それを超克する目である。悪を悪として見据える目である。悪を悪としない目とは人間と人間との力関係を恐れ、そこに埋没し、自己を守る「逃げ」である。

2017 日々の聖句 6月13日(火)
エリファズの言葉:わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。(ヨブ5:8~9)

病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。(わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。)」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハネ5:7~8)

私の黙想:
成る程ね。新約聖書の言葉から見るとローズンゲンの委員たちはそういう風にこの言葉を理解したのだ。その意見に私もそう思う。問題を自分のこととして捉えていない人の論理的帰結。「わたしなら」というが一つの「私の問題」になっていない。ヨハネ福音書の「病人」も、自分のことなのに、自分のこととして取り組んでいない。要するに神に(あるいは状況に)任せておけば、なんとかなるもんだ、という無責任な姿勢。ヨブはそんなことでは済まされなかった。このことは「何かある」、いやその神が「私に何か大きな問題を突きつけている」と感じている。だから、そう簡単に問題を神に任せるわけにはいかない。これは神からの挑戦である。だから神に問う。「何故ですか」。これこそが人生における最も大きな問題である。楽しいことも、苦しいことも、すべて神との関係の中で捉えている。だから、神への問いは、自分自身への問いでもある。神は私にどうせよというのだろうか。ここからしか信仰は始まらない。問いのない人生は、神のない人生である。

2017 日々の聖句 6月14日(水)
主の言葉:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答える。(詩91:15)

“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ロマ8:26)

私の黙想:
とにかく、人間には「愚痴る」相手が必要である。いつもいつも機嫌が良いわけではない。時には、イヤほとんど何時でも「愚痴りたい」。とにかく、何でも愚痴りたいし、愚痴ればそれで気が収まる。しかし、愚痴る相手、これが問題である。ホントウに心を許していなければ、愚痴れるもんじゃない。うっかり愚痴ると、それが回り回って自分のところに戻ってきてしまう。その点で、神さまなら安心して愚痴れる。結局のところ、愚痴なんていうものは「祈り」なんだ。どうにもならないことを承知の上で、「祈る(愚痴る)」。そのための相手としては、神さまは便利な方だ。ただ、黙って聞いてくれる。時には、叱ってくれる(私の間違いに気付かせてくださる)。時には、期待もしていないのに、問題がすーっと解決してしまう。これも神さまだからであろう。

2017 日々の聖句 6月15日(木)
自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。(ホセア14:4)

一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。(1コリント3:22~23)

私の黙想:
仏像を作る人は、「作っている」という自覚はないようである。むしろ「木の中にある仏を取り出している」という感覚。それは「自分の手が造った」という感覚ではない。祈りの形象化である。私はそれを簡単に、乱暴に、無神経に「偶像」とは呼べない。「偶像」というなら、人間の「観念」も「貨幣」も、あるいは「地位」も「権力」も偶像である。何と偶像にひれ伏している人が多いことか。「神とは呼びません」、それはそうだそれらは「神」ではない。でも、人間は「神」さえも偶像化する。今日のホセや書の聖句、「文脈」が面白い。「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません」。これらと並んで、今日のしくがある。つまり、アッシリアも「神」とは呼ばない。「軍馬」も「神」とは呼ばない。むしろそちら方が重要なのではないだろうか。もちろん、それらを、私たちは「神」とは呼ばない。しかし、神にしている。だから、神にしないという。この点で口語訳は微妙に表現している。「わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって、『われわれの神』とは言いません。この括弧が微妙である。フランシスコ会訳も、新改訳も、この句を括弧に入れている。括弧に入れることによって「われわれ」と「神」とが一体化し、特殊化している。それはもはや「単なる偶像」ではない。むしろ「依り頼まない」という意志の現れである。

2017 日々の聖句 6月16日(金)
エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ。彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ。彼女のために喪に服していたすべての人よ。(イザヤ66:10)

世の終わりの時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。(マタイ13:43)

私の黙想:
「来た〜」という感じだ。祖国のために「喪に服していたすべての人よ」。そうだ、その通りだ。日本の臨終を宣言されているような気分、喪に服しているとは私たちのことだ。その時、預言者は語る。「(祖国のゆえに)喜び踊れ」と。このままでは決して終わらない。必ず事態の大変革が起こる。預言者の耳には、もう、その胎動が聞こえている。ホントウの意味での「愛国者よ」、このままでは終わらない。次の幕が開く。そこでは民主主義の勝利の歌が聞かれる。

2017 日々の聖句 6月17日(土)
なぜ、わたしと争い、わたしに背き続けるのか、と主は言われる。(エレミヤ2:29)

もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら。(ルカ19:42)

私の黙想:
このようにストレートに神の言葉を民に語りかける預言者エレミヤ。反発されるのも当然だろう。民は「甘い言葉」を期待している。だいたい「甘い言葉」を期待していること自体が、神に逆らい続けていることなのに、それが連中には分からない。人びとから歓迎される預言者がよい預言者という民衆の「期待」を先ず破らなければならない。預言者とはしんどい仕事だ。今日の聖句の直前の27節、28節の言葉は強烈だ。これがまさに「神の言葉」だ。
「彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向けしかも、災難に遭えば「立ち上がってわたしたちをお救いください」と言う。お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ災難に遭ったお前を救いうるのならば。ユダよ、お前の神々は町の数ほどあるではないか」。
今の時代、神の言葉を語るべき牧師たちは何を黙っているのか。教会の外の相手に語る前に、内側にも語るべきではないのか。「眠りから、醒めよ」。

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