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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/04/03~04/09

2016-04-11 11:29:24 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/04/03~04/09

2016 日々の聖句 04月03日(日)
主は我らの王となって、我らを救われる。(Isa.33:22)

主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(2Thes.3:3)

私の黙想:
今日の聖句、当たり前すぎて、黙想が始まらない。22節全体を読むと面白い。主が王であるという意味が明白になる。王とは司法と立法権と統治権(行政)を併せ持つ存在だと言うことである。つまり、三権分立の原理がここには表明されている。主が「王である」という意味はこれらの三権を併せ持っているということ、そのことが国民にとって「救い」だという。これを現在の日本に当てはめるならば、国民主権ということは国民が三権を持っているということである。つまりこの国で最も偉いのは「国民」である。司法も立法(国会)も行政(内閣)も国民に基礎付けられてその仕事をしている。現在、日本で実に馬鹿らしい議論が展開している。内閣総理大臣があたかも「王」であるかのように振る舞い、そう信じ切っているような振る舞いが見られる。ここに根本的な過ちがある。せっかくの日曜日、つまらないことを考えてしまった。

2016 日々の聖句 04月04日(月)
かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。(Jer.31:28)

パウロの手紙:わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(1Cor.3:6~7)

私の黙想:
「殺生与奪の権」という言葉がある。ある特定の対象に対する絶対的権威を示す。今日の聖句は、イスラエルに対して神は殺生与奪の権を持つ絶対者であることを示している。これは相手が「神」だからいいものの、これが「悪魔」だったらどうしようもない。
この聖句で重要なポイントは「かつて」である。かつては破壊するものであったが、今は生かすものであると言う。29節が面白い。「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。「かつて」は全てが原因・結果の世界であったが、これからは原因と結果とが切り離される。かつては、因果応報の世界で自己責任が問われる世界であったが、これからは神の一方的な恩寵の世界となる。
31節がエレミヤの預言な核である。 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。この句が「新約」という言葉の由来である。

2016 日々の聖句 04月05日(火)
主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で、わたしの音楽を共に奏でるでしょう。(Isa.38:20)

わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1Cor.15:57)

私の黙想:
ヒゼキア王は病に罹り死を宣告される。それで必死になって神に祈ったところ寿命を15年間延長された(5節)。それからどうなったのかよく分からないが、ともかく神から敵国アッシリアに対して勝利することを約束され、神はアッシリア王の日時計を狂わせる。日時計であるから、時計だけが狂ったわけではなく、時間がかなりバックし、ヒゼキア王は勝利する。まさに「バック・ツー・ザ・ビクトリー」である。そして、何だかんだあって、ヒゼキア王は今日の聖句を述べる。「わたしたち」は「わたしの音楽」を共に奏でる。この部分、口語訳では「われわれは世にあるかぎり、主の家で琴にあわせて、歌をうたおう」となっており、「わたしの音楽」という言葉がない。フランシスコ会訳にも、新改訳にもない。これはいったいどうしたことであろう。

2016 日々の聖句 04月06日(水)
主は嘆いている人々を慰めるために、わたしを遣わした。(Isa.61:1~2)

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいたマリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。(Mk.16:9~10)

私の黙想:
今日の聖句は旧約も新約も編集部がかなり手を入れているようである。特に旧約は、確かに、まとめるとこうなる。「嘆いている人々」という言葉はない。「貧しい人」、「打ち砕かれた心を包み捕らわれ人」「つながれている人」この部分の意味は曖昧。口語訳では「貧しい人」、「心のいためる人」、「捕らわれ人」「縛られている者」とかなり明瞭。フランシスコ会訳では「貧しい人」、「心を挫かれている人」、「囚われている人」、「縛れている人」とその内容がハッキリする。新改訳はもっとハッキリしている。新共同訳の「変なところ」を言挙げしても何も始まらない。が、ここは第3イザヤ書では中心的なメッセージをまとめたところなので、ハッキリして欲しい。
いろいろ比較して、ここでは文語訳を中心に考える。「貧しきものに福音を伝ふる」、「心の傷める者をいやし」「俘囚(とらわれびと)にゆるしをつげ」「縛め(いましめ)られたるものに解放(ときはなち)をつげ」と将来の登場するメシアの働きを明瞭に述べている。ここで文語訳を取り上げた理由は、他の訳ではほとんど「良い知らせ」となっているのを、文語訳ではズバリ「福音」という単語を用いているからである。エレミヤ書には「新しい契約」があるが、イザヤ書には「福音」がある。そう言えば、2節の後半に以上のも事柄を集約して「嘆いている人々を慰め」という言葉が見られる。ローズンゲンの編集者はこの言葉に焦点を合わせたのであろう。この言葉を文語訳では「哀しむものなぐさめ」、口語訳は「悲しむものを慰め」と訳している。

2016 日々の聖句 04月07日(木)
我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます。(Ps.44:9)

詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(Col.3:16)

私の黙想:
こういう詩は語義的に厳密に訳する必要もないし、詩人もそんなことを望んでいないであろう。問題はこの句と次の句「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず」との対比である。しかも、この間に「セラ」が入っている。このセラは「一呼吸置く」ということで、この一呼吸によってこの詩を読む者、または聞くものは次の一句を待つ。そこで「しかし」という句が発せられ雰囲気がガラリと変わる。フランシスコ会訳では「しかし、あなたはわたしたちを見捨てて恥をかかせ」、この「恥」という言葉と「誇り」という言葉が鋭い対立を示す。新改訳はこの「しかし」を「それなのに」と訳している。岩波訳では「だがあなたは突き放し」と強烈である。
よく見るとこの詩は「マスキール」「教訓の詩」とされている。イスラエルが神との関係においてかつてそういうことがあったのであろう。それが何時のことか、ほとんどの学者は「マカバイ時代の迫害」だという。あるいは、バビロンから帰還した人々が周辺諸民族から受けた迫害だとするものもいるが、ともかく過去の歴史から学ぶ詩である。一生懸命、神を誇りにし、賛美をしても、神から「突き放されることがある」。

2016 日々の聖句 04月08日(金)
主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。(Deut.31:8)

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(Rom.8:38~39)

私の黙想:
今日の御言葉には、ただ、「そうですか。私はそれを信じ、感謝しています」としか言えない。この言葉は120歳のモーセが自分の生涯を回顧して最後の演説をした後の遺言のような言葉である。モーセは言う。「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない」。いや、実はやる気満々であるが、ヤハウェからいわば解雇された。出エジプトという大事業の最後の仕上げ、「乳と蜜の流れる」約束の地に入るまさにその時、モーセはヤハウェから、「あなたはこのヨルダン川を渡ることができない」と言われた。それはモーセにとってどんなに無念なことだったであろう。80歳で神に呼び出され、まったく無力な奴隷の民イスラエルをエジプトから救出し、40年かけて、一人前の民族に仕立て上げた。その苦労を最もよく知っているヤハウェが、最後の土壇場で、「もうあなたの仕事は終わった」と宣言される。今日の聖句の直前には「主御自身があなたに先立って行き」という言葉がある。ここまでの40年間、彼らの前を歩いていたのはモーセ自身である。しかし、今日からはそこをヤハウェご自身が歩く。ヤハウェがモーセの立っていた場所に立つ。モーセはこのことをどんな気持ちで受け止めたであろうか。

2016 日々の聖句 04月09日(土)
聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。(Ps.26:12)

信者たちは、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。(Act.2:46~47)

私の黙想:
今日の聖句、こういう聖句が黙想するのに一番困る。この聖句を睨んでいると、この詩人は聖歌隊のメンバーではなさそうである。礼拝に出席しているらしい。礼拝で聖歌隊が歌っている。まさか詩人は声を出して聖歌隊の歌に合わせて歌っているわけではない。それもなお、詩人は「聖歌隊と共に」主をたたえますという。そこで聖歌隊。聖歌隊は決して合唱団ではない。聖歌隊のコーラスは単なる合唱ではない。会衆の心に合わせ、会衆に代わって、「主をたたえる」。合わせているのメンバーの「声」ではなく、会衆の「心」である。だから、会衆は「聖歌隊と共に主をたたえる」。聖歌隊が目指す歌は、単に美しい歌ではない。会衆の心を「一つにする」歌である。聖歌隊の演奏が美しければ美しいほど、私の主をたたえる歌も美しい。

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