ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村克己が波多野精一の後継者になったいきさつ(2)

2010-08-05 11:16:50 | 小論
波多野精一教授が定年で退官したのが1937年7月である。波多野は退官後のことを松村に託すべく、その年の3月に大学院(3年)を退学させ、4月に非常勤講師を依嘱している。そして7月いよいよ退官したとき、いくら何でも若く経験も浅い松村を基督教学科の責任者にする訳にいかず、キリスト者ではないが、ドイツから帰国したばかりの西谷啓治助教授が波多野の後任として就任した。そして、翌1938年4月に松村は専任講師に就任している。その時、松村は30歳である。興味深いことはその年に北森嘉蔵が京大哲学科に入学している。
この年に起こった京都学派としての重要な出来事は、西田幾多郎による連続講演会「日本文化の問題」である。この講演がその後の京都学派の方向性を定めたと言ったら言いすぎであろうか。この講演が岩波新書として出版されたとき、松村は「共助」87号、1940.5)に書評を書き、次のように述べている。「(西田哲学)は何よりも勝れた一つの歴史哲学であると言うことができよう。日本文化の問題は何よりも我々の将来にかかる今日の課題であって、今日の日本の歴史的現実の底に深く潜る事によってのみ始めてその課題性を顕わにする。我々自身がこの歴史的現実の行為的要素として自己を自覚するのでなければ、問題は具体的とはならない」。
同じく、西田の講演「日本文化の問題」を聞いて感動した柳田謙十郎(後にマルキストとして活躍)は『日本精神と世界精神』(弘文堂、教養文庫)を著した。松村はこの書についても書評を書き、西田の次のような発言を記録している。「日本精神ということが今日やかましく言われるが名にもそういうものが特別にこれと言ってあるわけじゃない。あるわけじゃないと言ってそりゃあるにはあるんだけれど、これをやかましくいっている人たちが考えているような具合にあるんじゃない。日本精神を主張する人々だって実はこれが世界的に承認されることを求めているんであって、そうでなければ内容のないノミナリズムに陥る外はない」。松村は柳田のこの書は西田のこの発言を「明確に展開したもの」と評する。いろいろの内容を紹介した後、「要するにこれは曾て藤井武氏が『聖書より見たる日本』において試みたような日本民族の世界史的使命という課題を極めて明確に、その論理的倫理的構造において明らかにしたものということができる。
松村が京大哲学科の専任講師に就任した当時の雰囲気というものを紹介したつもりである。
その3年後、1942年4月、松村は助教授に就任する。その年の「中央公論」1月号に後に問題となった座談会『世界史的立ち場と日本』が発表された。参加メンバーは高坂正顕、高山岩男、鈴木成の4名である。その後、この座談会は『東亜共栄圏の倫理性と歴史性』(3月号)、『世界史的立場と日本』(11月号)、『総力戦の哲学』(翌1月号)と続き、それらをまとめて3月に単行本として出版された。ここから京都学派は単なる大学の哲学科の同窓会という枠をこえて、日本の政治的・軍事的指導層と深く関わり、後に「京都学派」として批判される集団となる。問題は松村がこの狭い意味での「京都学派」とどういう関係にあったかということで、本当のことは霧の中である。
具体的には、この座談会に松村はどうのように関わったのか。私見によると、松村は関わっていなかったと見る。ただし、松村自身はあたかも関わっていたかのように感じていた。例えば、松村は「中央公論」1942年10月号)に『南方と基督教の問題――南方経営研究――』という論文を発表したりしている。つまり、具体的は「最も危ない部分には仲間入り」させてもらえていないが、主観的には完全に同調しているという関係であろう。

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