ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/3/4~3/10

2018-03-10 09:52:15 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/3/4~3/10

2018 日々の聖句 3月4日(日)
父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。(詩27:10)

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:8~9)

私の黙想:
今日の聖句、言う者と、言われる者との立場によってずいぶん受け取り方が違うだろうと思う。息子・娘の発言としてこの言葉を聞く親はさぞ寂しいことだろう。親なら、たとえ神があなたを捨てても私はあなたがたを捨てない。何か苦しいことがあれば、共に担う覚悟がある。
これは比較の対照が親と神だから逆にリアリティが薄れる。これが比較の対照が「世間様」だったらどうなるだろう。たとえ全世界をお前の「敵」になったとしても、私はあなたを信じている。
現実的には、宗教が異なる方向に進もうと、つまり私の信じる神をあなた方が捨てても、私はあなたを捨てない。たとえ、あなたが教会との関係が切れても、親子の絆は切れない。

2018 日々の聖句 3月5日(月)
これら(天と地)はすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。(イザヤ66:2)

イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9:36)

私の黙想:
天地万物はすべて私が創ったという厳かな宣言。だからこそ万物は存在するという。何と壮大な言葉であろう。この言葉の前に、私はただ畏れおののき戦慄する。創世記第1章第1節はいわば客観的な天地創造物語りであるが、ここでは私に向かって真っ正面からの宣言である。私の内に秘められたさまざまな疑惑や議論をすべて吹き飛ばす言葉である。私の哲学も神学も生き方も、すべてこの宣言の上に建てられたバラック似すぎない。
今日、朝食後に抗がん剤の第4クールの点滴のために、第4回目の入院をする。最初の入院の際、とりあえず、第4クールが終わるまでは、その後のことは何とも言えない、と言い渡されている。と言っても、これ以外に、現在のところ治療方法はない。たとえ、あったとしても私の年齢や体力を考えると選択の余地はない。
ここでいう「霊の砕かれた人」とは、どういう人だろう。文語訳では「心を痛め」と訳されている。何か少し違う感じがする。他の訳ではほとんど「心が砕かれた人」と訳されている。ここでの「心」とは人間の中心、私が私であるということであり、それが「砕かれる」あるいは「破壊される」、それでも直、私は人間でありうるのか。

2018 日々の聖句 3月6日(火)
悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。(箴言20:22)

だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)

私の黙想:
今日の聖句は文語訳がよく似合う。「われ惡に報いんと言ふこと勿れ。主を待て、彼なんぢを救はん」(文語訳)。今日の聖句で、もっとも重要な言葉は「われ」である。「私が悪に報いる」ということで、単にそういう願望を懐いているに留まらず、非常に正義感の強い人が、今まさにカッカッとなって「鬼退治」ならず「悪退治」に出かけようとしている。まさに論語が教えているように「義を見てせざるは勇無きなり」(論語)という姿勢である。
こういう態度、姿勢、生き方を日本語では「義侠心」と呼ぶ。一見この生き方は格好良い。格好良すぎて、普通の凡人とは区別された特別なニュアンスをもつ。しかし、チョット間違うと大変なことになる。要するに、その正義感はその人の主観である場合が多い。「その悪はホントに悪か」。
それがホントに主観を超えた、普遍的な悪なのか。たとえ、それがホントに悪だとしても、ただ単に義憤に駆られた「報復」は、それ自体が「悪」となる。
だから古代ヘブライの知恵者はやる心を抑えて「待て」という。それもただ「待つ」のではなく、「ヤハウェを待て」という。

2018 日々の聖句 3月7日(水)
見よ、わたしは彼らを(北の国から連れ戻し)地の果てから呼び集める。(その中には)目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。(エレミア31:8)

イエスの言葉:わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(あなたがたは、「刈り入れまでまだ四か月もある」)と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。(ヨハネ4:34~35)

私の黙想:
捕囚の地からの帰還、それは捕囚民にとっては夢物語であった。預言者エレミアの預言は難しい。その理由は、その預言は捕囚以前から捕囚以後まで長い時代をカバーしているからである。これをすべて一人の預言者の言葉だと考えることには無理があるであろう。預言者エレミアの最期については、不明である。おそらく、エレミア自身は捕囚民とは別に、バビロン支配が始まった頃にはいわゆる保守的なリーダーたちに強制的にエジプトに移住したのではなかろうかと思われる。従って、捕囚の地からの帰還の記事は預言者エレミアに帰するわけにはいかないと思う。しかしバビロン捕囚という現実は見ていた。そして彼自身はバビロン捕囚はヤハウェの意志に基づく出来事で、ヤハウェは必ずこの捕囚民によってイスラエルの伝統は継承されると信じていたらしい。
その意味では今日の聖句は、エレミア自身の筆によらないにしても、文字通りエレミアの「夢」であった。今日の聖句の核心部分は、将来の再生イスラエルの民においては、いわゆる社会的弱者を含む共同体であるという点にある。

2018 日々の聖句 3月8日(木)
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。(詩36:7)

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイ6:26)

私の黙想:
今日の聖句のポイントは、ヤハウェの前では人間と獣との区別がないということである。こういう思想が聖書の中にあることは驚きである。だいたいにおいて、聖書ではその創造の過程から人間と獣とは異なる存在である。ところが、ところどころで、人間と獣とが同じ次元で共存する叙述が見られる。
今朝のテキストから思い浮かべることは、やはりノアの箱舟物語であろう。確かに物語で神は人間とすべての動物をお救いになった。しかし、あの救済は、ここでの「人をも獣をも救われる」という言葉とは違和感がある。何故なら、救われるのは、人間であれ、獣であれ、神が選ればれたごく一部に過ぎない。人間ならノアの家族だけ、動物に至っては各種、一つ「つがい」だけである。それは「救い」というよりも「種の保存」に過ぎない。神の「救い」というのであれば、「すべて」の救済を予想する。むしろ、ここでは人間とその他の獣との「共生共存」の状態であろう。それは預言者イザヤが終末における理想的状態としての「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」(11:6)という状況であろう。

2018 日々の聖句 3月9日(金)
主よ、御目は、真実を求めておられるではありませんか。(エレミア5:3)

使徒たちは主に言った。「わたしどもの信仰を増してください。」(ルカ17:5)

私の黙想:
預言者エレミアの性格がこの言葉に集約されている。それがエレミアの「若さ」であったのかも知れない。彼には、世間知に長けた「年寄り」のずる狡さが微塵もない純粋さ、それがエレミアの真情であったと思われる。その真情は彼自身が高齢になっても変わらなかった。だからこそ、彼は預言者仲間からも、また世間からも受け入れられず、いわば一人「浮いた」存在だったに違いなかった。
エレミアにとってヤハウェは「真実を求めているお方」に他ならなかった。だから彼自身も真実を求めて生きたのだった。今日の聖句に続く部分で、彼の周囲にいる「大人たち」の姿が描かれている。 「彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず、彼らを打ちのめされても、彼らは懲らしめを受け入れず、その顔を岩よりも固くして立ち帰ることを拒みました」。要するに、彼らは「厚顔無恥」だという。世間から少々批判されても、「時が過ぎれば、悪い噂も忘れられてしまうよ」という態度で受け流し、少しも反省しようとしない。エレミアにはそういう態度はとれなかった。だからこそ、彼は預言者になることを拒否していた。要するに当時の預言者とは、現在で言えば、「政治屋」であった。彼らは世間から受け入れられやすいことを「ヤハウェの名において」語っている。「若きエレミア」にはそんなことはできなかった。だからこそ、バカの一つ覚えのようにヤハウェの言葉を語った。それはエルサレムの滅亡の予言であった。
彼は誰からも受け入れられず、全く孤立したとき、「泣きつく」のはヤハウェだけであった。今日の聖句には、その「泣き言」が示されている。ヤハウェとエレミアとを繋ぐほとんど唯一のラインは「真実」であった。(病院で黙想を書くと、資料がほとんどないので、私自身の中にある資料しか使えないので、どうしても抽象的になってしまう)

2018 日々の聖句 3月10日(土)
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように(毛を切る者の前に)物を言わない羊のように。(イザヤ53:7)

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

私の黙想:
今日の聖句は、いわゆる「主の下僕の詩」の一部である。イザヤ書における「主の下僕」とは誰のこと、あるいは何かと言うことについてはいろいろ議論があるが、結局、よくわからない。このテキストを読んで思い浮かべるのは、「スケープゴート」という言葉である。日本語では「犠牲の山羊」と訳されるが、通常、「身代わりの羊」である。
イエスの十字架における死を「犠牲の羊」だと看破したのは、イエスの直接の弟子、使徒たち、初代教会の形成者たちでした。そんな「思想(アイデア)」を懐くことができたのは、彼ら以外にはいませんでした。そして、それは彼ら自身の「経験」でもありました。実は、究極のところ、イエスの教えが「宗教」として成立したのは、この時である、と私は信じている。こういう「発想の源」がイエスの愛読書、イザヤ書における「主の下僕」の思想であった、と私は信じている。
現在、「スケープゴート」という言い方は、それとは全然異なった文脈で語られる。自分たちの「犯罪」を覆い隠すために、弱い者にその責任をすべておっかぶせて、殺す、あるいは自殺に追い込む。これが現代の「スケープゴート」である。

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