ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/10/7~10/13

2018-10-13 08:39:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/10/7~10/13

2018 日々の聖句 10月7日㈰
エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。(ホセア11:3)

わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。(2ペトロ3:15)

私の黙想:
エフライムとは北のイスラエル(10部族)において指導的役割を果たしている部族である。時は強国アッシリアが迫りいつ滅ぼされても不思議でない状況である。そうゆう危機的な状況において預言者イザヤはヤハウェへの信仰に立ち帰えることを語る。ヤハウェは決してイスラエルを捨てられてはいない。思い出せ、幼かった頃のヤハウェと民との関係を。
しかし預言者たちの必死の呼びかけに応えず、北のイスラエルはアッシリアの滅ぼされ、歴史の表舞台から消えてしまう。それが消えた10部族である。

2018 日々の聖句 10月8日㈪
サウルの子ヨナタンがホレシャにいるダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励ました。(サムエル上23:16)

平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(エフェソ4:3)

私の黙想:
人間とはいったん権力を手にすると、なんだかんだいいながら手放そうとしない。それの究極の願望が自分の子どもに後を継がせいようとする。サウロ王の息子がヨナタンである。サウル王が執拗にダビデを抹殺しようとした根本的理由はダビデが王位を狙っていると思ったであろう。その意味ではヨナタンとダビデとは「宿敵」である理由は十分あったであろう。
ところがヨナタンとダビデとの関係は聖書の中で最も美しい友情であろう。
父サウル王を裏切り友人ダビデを助けるヨナタン。にもかかわらず、サウル・ヨナタンの父子関係は崩れない。これがダビデがサウル王からどのような理不尽なことをされても許すダビデを支える根拠となる。いろいろなことを考えさせられる。サウル王とダビデとの関係に隠れてヨナタンとダビデの友情のことがあまり取り上げられないが、ヨナタンの生き方についてはもっと取り上げられてもいいと思う。

2018 日々の聖句 10月9日㈫
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16:8)

信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。(ヘブル11:27)

私の黙想:
ヤハウェは私が運転している車のナヴィ席(左ハンドルの場合運転手の右席)におられる超有能なナビゲーターである。
勿論、詩編の時代に自動車があったわけではない。人格的関係において「右」とはどういう位置か?
右手は便利で器用な手であるがそれ以上に戦う手であり力のてである。恋人ないしは妻が並んで歩くときは男が進行方向の右側に立つ。もし男が左側を歩くと腕を組むと右手が女に取られてしまい、いざというとき戦うことができない。結婚式でも新郎は新婦の右側にたつ。だから退堂する場合祭壇の前で左右入れ替わらねばならない。
ヤハウェが私の右側におられるということは私を守るためである。

2018 日々の聖句 10月10日㈬
なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られまた、二つのことによって語られるが人はそれに気がつかない。(ヨブ33:13~14)

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ24:32)

私の黙想:
神がなさることの意味がわからん。何故、悪人が栄え、善人が苦しむのか。いったい、神は本当に居られるのか。すべては偶然であり、無意味なのであろうか。
こういう深刻な疑問について、本日の聖句は答える。神のなさることについて、神はいちいち説明なさらない。一つ、あるいは二つの出来事について神は明瞭に答えて居られるのに、人間はそれに気付いていない。ある日、ある時、予想もしていないとき、突然、神が姿を現す。ハッと気付いた瞬間、神の姿は消えてしまう。

2018 日々の聖句 10月11日㈭
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、わたしを知っていることを誇るがよい。(エレミヤ9:22~23)

実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。(ガラテヤ6:3~4)

私の黙想:
むしろ以下の部分は聖書本文では「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを」。「日々の聖句」の切り出し方には疑問後残る。決定的な欠陥は「目覚めて」を省略してしまったことであろう。口語訳では、「誇る者はこれを誇とせよ」でいったん文章を切って、「すなわち、さとくあって、わたしを知っていること」と「これを」の内容を記している。翻訳という行為は難しい。
それとは別に新共同訳の「目覚めてわたしを知ることを」を「さとくあって、わたしを知っていること」(口語訳)、新改訳では「悟りを得て」、フランシスコ会訳は面白い。「わたしを理解し」と、「わたしを知ること」とを句点で句切って並べている。岩波訳は明解で、「誇るものは、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」。
聖書は全体として、「誇ること」、「自慢すること」については厳しい。基本的には人間には誇れるものなど何もないという姿勢である。ところが、今日の聖句では、もし、人間に何か誇ることがあるとしたら、「目覚めてヤハウェを知っていること」だけである、という。「目覚めていること」と「知っていること」との関係はどちらが先か。ただ知っているだけでは不十分である。「目覚めて知る」のでなければならないという。
「目覚めて」を文語訳では「明哲(さとく)して」という特殊な単語を用いている。「明哲」、広辞苑によると「聡明で事理に通じていること。またその人」と説明されている。と、そこで私は考えます。多くの賢い人、明哲な人は、理解力のある人は、ここで止まってしまって、その次の「ヤハウェを知る」に至らない。というよりも自分自身の明哲さを誇ってしまう。重要なこと、人間として誇れることは、そこに留まらないで次にステップ、「ヤハウェを知る」に至ること、そこまで至れば誇ってもよろしい。やはり、哲学に留まってはいけない。神学にまで行かねば、などと自慢したりして、私はアホやな。

2018 日々の聖句 10月12日㈮
あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。(
レビ26:5)

イエスの言葉:わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:10)

私の黙想:
「豊かな食料(=経済的繁栄)」と「平和の保障」、これが民族としての政治的目標である。これは3節の「 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、という条件のもとに与えられる。これがイスラエルの民とヤハウェとの契約である。
この条件は民族内に全ての種類の「偶像」を撤廃するということによって実現される。非常に易しい条件である。いわば当然のことである。偶像とは偽りの神であり、偽りの象徴である。しかし、その偽りの象徴が目の前に置かれる時、国民はそれがホンモノであり、実現可能な豊かさを保障するものであるかのように思ってしまう。いな、思わされてしまう。
1つの偽りが2つの偽りを生み、2つの偽りが4つの偽りを生み、それは神話化され人々はその偶像の前で「踊る」。かくして民族内は偽りで充満する。
偶像礼拝を馬鹿にしてはならない。偶像礼拝は「安全神話」を生み出し、国を滅ぼすことになる。
今の日本「安全神話」に満たされている。とくにアベノミクス、原発安全神話はぬぐってもぬぐってもぶり返してくる。今や日本は神に見捨てられた感じがする。

2018 日々の聖句 10月13日㈯
御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神。(すべての神を超えて大いなる王。)(詩95:2~3)

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ロマ15:5~6)

私の黙想:
み言葉(今日の聖句)との対決、さぁ、どこから攻めよう。今日の聖句、翻訳上の問題点を指摘するのも野暮な感じ。攻め入るスキがない。
フランシスコ会訳の注釈によると、この詩は正月の詩編だという。お正月、みんなで揃って主を礼拝しようという誘いの歌だという。そう言われてみると、かなり勇ましい詩だ。「御前に進み」、「前に進め!」という感じが良く出ている。ダラダラした初詣ではない。隊列を整え、足並みを揃え、主の前を行軍(パレード)する。そして、神の前(神殿)で停止し、正面を向き、一斉に「主は大いなる神(エル)」と歓声を上げる。ここではアンプを通さない「肉声」がふさわしい。フランシスコ会訳では「歓呼の声をあげよう」と訳している。それも数え切れないほどの大勢の声がいい。私が演出家なら、歓呼の声の前に「一瞬の静寂」が欲しい。その静寂を突き破るような歓呼の声「ヤハウェは大いなる神!」。
聖公会の祈祷書では朝の礼拝ごとに原則として詩95が唱えられる。

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