今日のローズンゲン 7月17日(日)
彼らはあなたに戦いを挑むが、わたしがあなたと共にいるので、勝つことはできないと主は言われた。(エレミヤ1:19)
わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。(使徒言行録18:10)
私の黙想
ここで預言者エレミヤに戦いを挑む相手が外国の勢力なのか、民族内の指導者たちなのか曖昧である。おそらく後者であろうか。エレミヤの「課題」はエルサレムに侵攻する外敵に対する対応であったが、個人的な「敵」は同胞の指導者たちであった。ここにエレミヤの悲劇がある。
今日のローズンゲン 7月18日(月)
主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。(箴言16:7)
平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(ロマ14:19)
私の黙想
今日の聖句(格言)は微妙である。こちらは「主に喜ばれる道を歩んでいる」のに相手が悪いために「和解できない」という雰囲気がある。このことに疑問を持つことから「和解への道」が開かれる。
今日のローズンゲン 7月19日(火)
わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。(エゼキエル39:29)
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ロマ8:16)
私の黙想
「隠れる神」と「顕れる神」とが三位一体。「父なる神(隠れる神)」と「聖霊なる神(顕れる神)」、その間に歴史の中に「肉体を持って現れた子なる神」がいる。三位一体の神秘。今も父なる神は隠れている。「見えない神(隠れた神)」の伝統の中で「見える神」を求める。この答えがキリスト教という言い方もできるであろう。三位一体論についての理解の柔軟性がキリスト教理解の柔軟性に通じる。キリスト教が硬直化したら、もはやイエスに従う交わり(教会)ではなくなる。
今日のローズンゲン 7月20日(水)
わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清めて、赦す。(エレミヤ33:8)
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)
私の黙想
「罪を犯し、犯され、赦す」関係も「関わりがない」よりまし。完全無視より喧嘩仲間の方が関わりがある。神は「関わりのない異邦人」より、自己に反逆するイスラエルを愛する。先主日の説教より、「祈りとは神との関わりの確認である」。
今日のローズンゲン 7月21日(木)
苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。(詩118:5)
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ロマ8:15)
私の黙想
聖書の神は「呼べば応える神」。これは体験的事実。時には、神の方から呼びかけ、人間が答えなければならないときもある。アブラハムも、モーセも神から呼びかけられ、それに答えた。ヨブにおいては呼んでも応えてくれない神(?)が主題。本当に神はヨブに応えていなのか。沈黙の神、怒鳴る神。黙って行動する神。神の応答の多様性。
今日のローズンゲン 7月22日(金)
あなたは主によって喜び躍り、イスラエルの聖なる神によって誇る。(イザヤ41:16)
マリアの祈り:わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46-47)
私の黙想
この何でも「主によって」とか「神によって」という考え方は、確かにその通りであったとしても、気になる。喜ぶのは「私」であり、「私の神」を自慢にするのも「私」である。その意味でマリアの賛歌の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という言葉は美しい。
今日のローズンゲン 7月23日(土)
あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは、あなたの御名だけを唱えます。(イザヤ26:13)
この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。(黙示録11:15)
私の黙想
「この世の支配者」は常に、暴力的な権力と情報操作によって、人びとの心も支配しようとする。人びとは「飴と鞭」によって「自分自身の価値観」まで明け渡してしまう。まさに原子力は日本人の心まで支配してしまっている。
彼らはあなたに戦いを挑むが、わたしがあなたと共にいるので、勝つことはできないと主は言われた。(エレミヤ1:19)
わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。(使徒言行録18:10)
私の黙想
ここで預言者エレミヤに戦いを挑む相手が外国の勢力なのか、民族内の指導者たちなのか曖昧である。おそらく後者であろうか。エレミヤの「課題」はエルサレムに侵攻する外敵に対する対応であったが、個人的な「敵」は同胞の指導者たちであった。ここにエレミヤの悲劇がある。
今日のローズンゲン 7月18日(月)
主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。(箴言16:7)
平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(ロマ14:19)
私の黙想
今日の聖句(格言)は微妙である。こちらは「主に喜ばれる道を歩んでいる」のに相手が悪いために「和解できない」という雰囲気がある。このことに疑問を持つことから「和解への道」が開かれる。
今日のローズンゲン 7月19日(火)
わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。(エゼキエル39:29)
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ロマ8:16)
私の黙想
「隠れる神」と「顕れる神」とが三位一体。「父なる神(隠れる神)」と「聖霊なる神(顕れる神)」、その間に歴史の中に「肉体を持って現れた子なる神」がいる。三位一体の神秘。今も父なる神は隠れている。「見えない神(隠れた神)」の伝統の中で「見える神」を求める。この答えがキリスト教という言い方もできるであろう。三位一体論についての理解の柔軟性がキリスト教理解の柔軟性に通じる。キリスト教が硬直化したら、もはやイエスに従う交わり(教会)ではなくなる。
今日のローズンゲン 7月20日(水)
わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清めて、赦す。(エレミヤ33:8)
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)
私の黙想
「罪を犯し、犯され、赦す」関係も「関わりがない」よりまし。完全無視より喧嘩仲間の方が関わりがある。神は「関わりのない異邦人」より、自己に反逆するイスラエルを愛する。先主日の説教より、「祈りとは神との関わりの確認である」。
今日のローズンゲン 7月21日(木)
苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。(詩118:5)
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ロマ8:15)
私の黙想
聖書の神は「呼べば応える神」。これは体験的事実。時には、神の方から呼びかけ、人間が答えなければならないときもある。アブラハムも、モーセも神から呼びかけられ、それに答えた。ヨブにおいては呼んでも応えてくれない神(?)が主題。本当に神はヨブに応えていなのか。沈黙の神、怒鳴る神。黙って行動する神。神の応答の多様性。
今日のローズンゲン 7月22日(金)
あなたは主によって喜び躍り、イスラエルの聖なる神によって誇る。(イザヤ41:16)
マリアの祈り:わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46-47)
私の黙想
この何でも「主によって」とか「神によって」という考え方は、確かにその通りであったとしても、気になる。喜ぶのは「私」であり、「私の神」を自慢にするのも「私」である。その意味でマリアの賛歌の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という言葉は美しい。
今日のローズンゲン 7月23日(土)
あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは、あなたの御名だけを唱えます。(イザヤ26:13)
この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。(黙示録11:15)
私の黙想
「この世の支配者」は常に、暴力的な権力と情報操作によって、人びとの心も支配しようとする。人びとは「飴と鞭」によって「自分自身の価値観」まで明け渡してしまう。まさに原子力は日本人の心まで支配してしまっている。