ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

公明党がややこしい

2009-08-20 23:01:03 | ときのまにまに
公明党という政党が宗教団体創価学会を背景にして、1964年に設立され、1963年の統一地方選挙で1000人を越える地方議員を誕生させて政治の檜舞台の登場したことは誰でも知っている。1969年から1970年にかけて、全国各地で学園闘争が盛んになった頃、政教分離の原則が問われ、社会批判の嵐の中で、宗教法人創価学会の池田大作氏が公明党と創価学会を制度的に明確に分離することを宣言し、脱宗教化の方針転換がなされた。
これ以降、自由民主党と日本社会党の2大政党がしのぎを削っていた55年体制の中で保守でも革新でもない中道路線の立場に立ち、福祉と平和を最重要の政策とし、大衆のための政治をアピールしてきた。
それ以後、日本共産党との対立や妥協を経て、しばらくは中道路線を守ってきたが、1990年代には政策面で保守に近づき、自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)制定に賛成して外交政策を転換した。
1993年に瓢箪から駒のように非自民の細川連立政権が成立した際には結党以来初めて与党の側につき、郵政大臣、労働大臣、総務庁長官、環境庁長官などの国務大臣のポストを得て、政権与党の立場に立つ味を占めた。しかし、細川政権は短命で、政権は自民党と社会党との連立で村山政権が成立した際には再び野党に転落した。そして、その年の12月5日に内部論争を経て「公明党」を解散し、「公明新党」と「公明党」に分党され、公明新党は新進党に合流した。その後数年、「公明党」、「公明新党」、「新進党」、「新党平和」、新進党内「公友会グループ」等離合集散をへて、1998年11月7日に現在の「公明党」が再結成された。明けて、1999年、単独で過半数を得ることが困難になった自民党(小渕内閣)の要請を受け、連立に参加。その後も森内閣から麻生内閣に至るまで自民党と連立を組んで今日に至っている。
1980年代までの公明党は宗教団体を背景にして、それなりに公明正大で平和主義という中道主義を貫き、クリーンなイメージを保持し、大衆にアピールしていたが、1990年代以後は、形振りかまわず政権与党に便乗する票稼ぎ政党になってしまった。
という訳で、この度の政権委譲選挙後の公明党の舵取りがややこしい。

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