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今週のローズンゲン 2015/11/29~12/05

2015-12-05 16:16:27 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/11/29~12/05

2015日々の聖句 11月29日(日)
神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せる。(詩36:8)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(1ヨハネ3:1)
私の黙想:
それ程に言われている「慈しみ」とは何か。何をそんな初歩的なことを今さら問うのだ、私は。この詩では1節から5節まで罪の実態が述べられて、いきなり6節で「慈しみ」が出てくる。そして8節に続いて11節で三度「慈しみ」が出てくる。「慈しみ」が出てくる3度を並べると、その不思議さが分かる。
(1) あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。
(2) 慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せる。
(3) あなたを知る人の上に、慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にありますように。
これこそ宗教詩の極みである。
文語訳では「仁慈」と当て字し、新改訳、岩波訳ではこの慈しみを「恵み」と訳している。
波多野精一先生は『宗教哲学の本質及びその根本問題』という講演の中で次のように述べておられる。「救済は絶対的実在そのものが、罪悪の状態にある私達に、その上なく価値ある本質とその限りなく勝れた力とを、即ちその極まりなく尊き自己を与えることによって成し遂げられる。ここに宗教的意義が愛、慈悲、恵みなどと呼ぶ体験の哲学的基礎は存在する」(全集第3巻、216頁)。

2015日々の聖句 11月30日(月)
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる。(イザヤ54:8)
あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)
私の黙想:
今日の聖句、「ひととき」と「とこしえ」との対比が気を惹く。7節では「わずかの間」と「深い憐れみ」。その実例がまた面白い。「ノアの洪水に等しい」という。ノアの洪水は、神の目から見たら確かに「ひととき」で「わずかの間」かも知れないが、その被害は人類の滅亡に等しい。そしてその後の「再びあなたを怒り、責めることがない」という。それ以後(永遠に)は、その神の怒りは収まり、もはや責められない時代だという(?)。
いや、実際の人類の歴史を振り返るとき、神はしばしば目つぶり、隠れておられるのではないのだろうか。否、むしろ隠れっぱなしだ。じゃぁ、「今の時」は神にとっての「ひととき」「わずかの間」なのだろうか。「永遠」が「時」に突入し「永遠の今」となり、「今は恵みの時、恵みの日」なのではないのだろうか。
パウロの「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)を思う。

2015日々の聖句 12月01日(火)
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。(詩62:2)
“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ロマ8:26)
私の黙想:
私の記憶と違うので口語訳を見ると、やはり違う。口語訳では「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る」となっている。文語訳でも「わが魂は黙してただ神をまつ、わが救いは神よりいづるなり」。ここで重要なことは私は何もしないということで、動くのは神の方だと言うことである。私が神に「向かう」のではなく、また神の中に私の救いが「ある」のではなく、私はただ「待つ」だけ、神の方が「来る」。あるいは「神の中から出てくる」。動くのはあくまでも神側で私は「待つ」。この「待つ」ということは外面的には「無為」であるが、内面的には「激しさ」がある。待つためには非常なエネルギーが必要である。誰かと待ち合わせをすればすぐ分かる。待っている5分間、その時の内面的エネルギーの消費はすごい。歩くよりも走るよりも「ただ待つ」ということは大きなエネルギーを必要とする。私は信仰の神髄は「待つ」ことだと思っている。
今は教会暦ではクリスマスを待つ期間である。神の方からの働きかけをひたすら待っている。

2015日々の聖句 12月02日(水)
主よ、わたしたちを助けてください。(歴代誌下14:8)
主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。(2テモテ4:18)
私の黙想:
何という単純、率直な祈りだろう。まるで幼子のような単純さだ。単純さは力だ。この単純さはどこから出てくるのだろう。甘えからは出て来ない。自分の「分」を果たしたという自信から出てくる。
この言葉は、分裂後の南のユダの3代目のアサ王の口から発せられている。アサ王は聖書では(ダビデに次ぐ)珍しい「善王」だ。「その子アサがアビヤに代わって王となった。その治世になって十年間、国は平穏であった。アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った」(歴代誌下14:1)。
自分がなすべき責任、自分の役割を十分に果たしているものだけが、神にこのように率直に願いを言える。そして、神はその願いを聞かれる。

2015日々の聖句 12月03日(木)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができます。そうでなくてもわたしたちは王様の神々に仕えることも、金の像を拝むことも、決していたしません。(ダニエル3:17~18)
主の言葉:見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。(黙示録3:8)
私の黙想:
今日の聖句は、ユダヤ人の3人の青年たちがネブカドネツァル王に信頼が厚いのを妬んだ官僚たちの罠にはめられて、燃える炉にほりこまれる刑の処せられようとしたときの王に向かって語った決意の言葉である。偶像を拝めという権力者の命令に逆らってでも偶像礼拝を拒否した英雄の物語。この後、3人は直ちに炉の中に放り込まれたが、無事であった、という。

2015日々の聖句 12月04日(金)
その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる。(イザヤ2:11)
神は人を分け隔てなさいません。(ロマ2:11)
私の黙想:
「高ぶる目」とはなんだろう。口語訳はかなり苦労して「目を上げて」と訳している。目を上げているのは誰だろう。この訳では問題があるようだ。フランシスコ会訳、新改訳も新共同訳とほぼ同じ。高慢な人間は「目が」高慢になっているのだろうか。高慢な人間とは高い視点から他の人々を下に見ている。つまり目線が高い。

2015日々の聖句 12月05日(土)
あなたはあなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、(レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と)共に喜び祝いなさい。(申命記26:10,11)
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:18)
私の黙想:
今朝のローズンゲンではカッコの中が省略されている。これを除いてしまうと、次の「共に」が家族内部だけのことになり、意味が変わってしまう。ここで「レビ人」と「寄留者」とが並べられている点が面白い。「寄留者」と言えば「あなたの中に住んでいる」ということは説明不要であるのに、わざわざそれを言うことは「レビ人」と「寄留者」とを区別するためであろう。レビ人は「内側の人間」であると同時に「外側の人間」なのであろう。(レビ人と寄留者との共通点は「自分の居る場所」を持たない。)
ここで問題になっていることは、神からの賜物を「家族」という枠組みを取り除いて「共に喜ぶ」ということである。
最近は日本でもクリスマスを家族で楽しむという習慣が普及して生きた。父親だけが、何処か歓楽街でバカ騒ぎをするのが減ってきたことは喜ばしい。しかし、家庭内におけるクリスマスの祝いの場に、誰か「お客さん」を招く、特に海外からの留学生とか、都会で一人寂しく迎えるであろう誰か、あるいは独居老人とかを「必ず」招くという習慣を身に付けたいと思う。家庭内の祝いであると共に、何処か家庭という枠を破ることが、特にクリスマスには必要なのではないか。イエスは、この世界の中に「居場所のない人」として生まれた。

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