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今週のローズンゲン 2018/4/8~4/14

2018-04-15 09:25:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/4/8~4/14

2018 日々の聖句 4月8日(日)
神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」(創世記21:17~18)

従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ロマ9:16)

私の黙想:
今日の聖句は、非常に面白い。イシュマエルがイスラム教の先祖だという伝説(=俗説)を念頭に置いて読むと、もっともっと面白くなる。
【参照:創世記17章
18 アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」
19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
20 イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。】

ハガルとはアブラハムの妻サラの召使いで、アブラハム夫婦に子どもが生まれるのが絶望的に思われたときに、サラの提案でハガルの腹を借りて子どもを産むことになる。その時、産まれたのがイシュマエルで、アブラハム夫婦は大喜びする。ところが、その後サラが自分自身で実子イサクを産むことになる。つまりイシュマエルとイサクとは異母兄弟ということになる。
その後、いろいろあってハガルとイシュマエルとはアブラハムの家から追い出されることになる。追い出されたハガルとイシュマエルとが迎えた最初の日の出来事が今日の聖句である。
アブラハム夫婦はハガルとイシュマエルとを「捨てた」。しかしヤハウェは彼らをお捨てにならなかった。
ユダヤ教もキリスト教もそしてイスラム教もアブラハムを「信仰の父」として尊敬している。しかし、そのアブラハムの人生においては幾つかの汚点があるが、これは最大の汚点である。

2018 日々の聖句 4月9日(月)
主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。(哀歌1:18)

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。(栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。)(ヘブル13:20~21)

私の黙想:
「哀歌」からの聖句は珍しい。哀歌とは現代風にいうと「エレジー」で、悲しい歌を意味する。要するに、エルサレムの滅びを嘆く歌で、エレミヤの作と言われ、むかしは「エレミヤの哀歌」と呼ばれ、エレミヤ記の付属と考えられていた。この書には5つの哀歌が含まれている。
第1の歌(第1章)は第1部(1~12)と第2部(13~22)の2つの部分に分けることが出来る。第1部では詩人がエルサレム(の神殿)の崩壊を嘆き、第2部の前半13~17節では周辺諸民族の笑いものにされていると嘆き泣く。つづいて、18~22節でこの災害はすべてイスラエルの民自身がヤハウェの言葉に背いたとこと結果であると告白し、ヤハウェに悔い改めることを誓う。
今日の聖句における「主は正しい」という一言にそれらのすべての思いが込められている。非常に強い言葉である。
この部分で注目すべき点は、罪の告白はあるが、赦しを請う言葉が見られないことである。口語訳ではかろうじて20節で「主よ、顧みてください」という祈りに似た表現があるが、これも新共同訳では、ただ私たちの現状を「ご覧ください」としか言えない。本当に罪を悔いるということは、たとえ「赦される」ことを願っていても、それを口に出すことも出来ない状況なのであろう。

2018 日々の聖句 4月10日(火)
母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。(母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。)(詩22:11)

パウロの手紙:あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(フィリピ1:6)

私の黙想:
詩編22編といえば、イエスが十字架上で叫んだと言われる例の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉が最初の一句である。この言葉を巡っていろいろ議論されている。十字架上でイエスはこの詩全体を暗唱したという説から最初の一句だけだという説まである。今はその議論に入るつもりはない。通常、この詩は個人の運命についての悩みを詠ったものであるといわれているが、むしろイスラエル民族の光栄と嘆きを「個人に托して」詠ったものではないかと思っている。
イスラエル民族はその誕生から、いや誕生以前からヤハウェのご計画の中で始まり、先祖たちはそのことを誇りにしていた。しかし、やがてヤハウェに対して生意気なことを言い始め逆らい始めた。その故に、ヤハウェから捨てられた。ヤハウェから捨てられたイスラエル民族は他民族から笑いものにされ、あげくの果ては他民族の食い物になってしまう。21節までが、イスラエル史を振り返った嘆きの叙述である。
しかし22節以下は、ヤハウェに対する救済の嘆願となる。嘆願は「讃美の声」となる。
イエスが十字架上でこの詩の第1節を唱えたということは非常に象徴的である。史実に忠実に考える限りは、イエスはイスラエルの民の救済のためにあえて十字架に架かられた。
今日の聖句は、イスラエル史の始まりの叙述である。

2018 日々の聖句 4月11日(水)
(万軍の神、)主よ、誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は、あなたを取り囲んでいます。(詩89:9)

<イエス・キリストは>証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者。(黙示録1:5)

私の黙想:
「主よ、あなたの真実は、あなたを取り囲んでいます」という言葉の真意がよくわからない。口語訳では「あなたのまことは、あなたをめぐっています」。文語訳の「汝の眞實は汝をめぐりたり」ももう一つである。関根先生はこれをこう訳している。「ヤハウェ、万軍の神よ、誰があなたのように強かろう。ヤハよ、あなたの真実もあなたの周りにある」。さすがにこれは分かりやすい。強さと真実が対比されており、強さにおいてはずば抜けており、しかもヤハウェの周囲は真実が溢れている。いくら強くても、乱暴で、真実の欠片もない支配者、誰がそんな指導者に従うだろうか。力に相応しい真実がなければ、その力はすべてのものを破壊する。強ければ強いほど、それに相応しい真実が求められる。

2018 日々の聖句 4月12日(木)
神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。(詩51:3)

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソ1:7)

私の黙想:
詩51はダビデ王の懺悔の祈りとして有名である(2節)。ある意味では懺悔する人の見本の様な言葉であり、ヤハウェによる赦し(清め)は犠牲(いけにえ)というような祭儀によってなされるのではないという思想が見られる。その意味で、徹底的に霊(魂)の問題として「砕けた霊」(口語訳では「砕けた魂」が強調されている。その意味でこの詩には、現代性というか、普遍性がある。
4月9日のローズンゲンで、私は「本当に罪を悔いるということは、たとえ『赦される』ことを願っていても、それを口に出すことも出来ない状況なのであろう」と述べた。ここでも懺悔したから赦して頂きたいと祈っているのではなく、ひたすらヤハウェの「憐れみ」を求めている。赦しは人間側からの何らかの働きかけ(懺悔、祈り、捧げもの)に対する神からの答えではない。
今日の聖句は3節となっているが実質的には詩の冒頭の句であり、この詩全体の気分を現している。2節には「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」というようにこの詩の背景を述べているが、必ずしもそうではないであろう。
ここで赦されたい罪とは「背きの罪」でそれを「ぬぐって」くださいと祈っている。「背きの罪」、何か聞き慣れない言葉である。旧約聖書でたった6回しか用いられていない。口語訳では「とがをぬぐってください」と訳されている。文語訳では「もろもろの愆をけしたまへ」。関根訳では「わが咎を消したまえ」。漢字、ひらがな、表現は異なるが、いずれも「とが」である。新共同訳のユニークさが目立つ。
ここで私が指摘したい点は、それはもはやダビデ王の犯した個別的な罪というより、罪全般、最大限に拡大された罪の概念とその赦しの形が示されている。従来の習慣によると、罪を犯した場合、神殿で燔祭を献げることによって赦されてきた。この詩の示す状況は、神殿が崩壊し、イスラエルの民はこれからヤハウェに対して罪を犯したときにどの様にして神の赦しを求めたらいいのかという、不安に駆られたらしい。この詩は、そういう状況での一つのモデルとしての祈りであろうと思われる。

2018 日々の聖句 4月13日(金)
(しかしもし主が、『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、)どうぞ主が良しと思われることを、わたしにしてくださるように。わたしはここにおります」。(サムエル下15:26、口語訳)

ペトロが、<イエスに>「(はい、主よ、)わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15)

私の黙想:
何故、口語訳なのか。新共同訳では「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」と訳されている。最も大きな差は、新共同訳には、「わたしはここにおります」というフレーズが欠けている。それ以外はヤハウェの言葉が直接話法か間接話法かとの違いぐらいであろう。強いていうなら「愛さない」と「喜ばない」ぐらいの違いだろうか。文語訳では「されどヱホバもし汝を悦ばずと斯いひたまはば、視よ我は此にあり。其目に善と見ゆるところを我になしたまへ」。
要するに、この言葉はまな板の上の鯉のように、あるいはヤクザが敵の手に落ちて「煮ようと焼こうと、どうでも、好きなようにやってくれ」と、開き直っているようなものである。ただその相手がヤハウェだということである。
一体、何があったのというのだろうか。このセリフの主(ぬし)は、ダビデ王である。この時、40歳になっていた息子アブサロムが、ダビデに王位を譲るように要求していた。多くの臣下たちはアブサロムを支持していたようである。それで、身の危険を感じたダビデ王は少数の味方だけを引き連れて城を出た。その時、ダビデ王の家来たちは神の存在を象徴する「神の箱」を城から持ち出していた。ダビデ王は、神の箱を城に返却せよと命じ、真っ裸になって語った言葉が今日の聖句である。王たるもの、常にこの潔さが求められている。王権は神から与えられたものであり、自分の実力で勝ち取ったものではない。この点を間違えると、王権そのものが汚れたものになる。

2018 日々の聖句 4月14日(土)
お前たちのうちにいるであろうか、(主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。)闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼(し、その神を支えと)する者が。(イザヤ50:10)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。(コロサイ1:13)

私の黙想:
イザヤ書50章では1節から3節までがヤハウェの言葉で、ここでの「わたし」とはヤハウェである。4節以下の「わたし」は「ヤハウェの下僕」(10節)で、ヤハウェの下僕が民に語りかけている。全体の流れとしてはイスラエルの民がヤハウェの下僕の言葉を聞こうとしないで、むしろ彼を迫害する。しかし、彼は挫けない。「主なる神が助けてくださる」(9節)と語る。今日の聖句はこれに続く10節である。

ローズンゲンでは、今日の聖句の約半分は括弧の中に入れられ、省略されている。この黙想では省かれている部分もすべて補って考えることとする。
そうすると、いくつかの平行する語句が重なっていることがわかる。
この部分、一種の「募集要項」として読むと分かりやすい。ヤハウェはこういう人を求めておられるのだ。
(1)「主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者」と「闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼する者」
(2)「闇の中」でも「光のないとき」でも、(姿勢を変えない人)
(3)「主を畏れ」(る人)と「主の下僕の声に聞き従う」(人)
(4)「主の御名に信頼する」とは「神を支えとする」ことである。
これら全体が「お前たちのうちにいるであろうか」という反語的疑問文によって結ばれている。

文語訳では「汝等のうちヱホバをおそれ、その僕の聲をきくものは誰ぞや 。暗をあゆみて光をえざるとも、ヱホバの名をたのみおのれの神にたよれ」とかなり立体化している」と前半を反語的疑問文に、後半を命令文というように立体化している。

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