ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/11/19~11/25

2017-11-25 19:37:03 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/11/19~11/25

2017 日々の聖句 11月19日(日)
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福された。(申命記2:7)

ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(1コリント3:7)

私の黙想:
「あなたの手の業」、端的に言って「労働」ないしは「労働によって得た糧」であろう。今日の聖句は、イスラエルの民が荒れ野で放浪した40年間の生活を要約した言葉である。歴史的に見て事実、その通りであったかどうかは定かではない。ともかく、建前としては、通過するところで、そこの住民に迷惑を掛けないように、食料でも水でもあれ、きちんとお金を支払え、とヤハウェは命じる。そのために必要な資金は「あなたの手の業」によって得る。ヤハウェはそのために
「あなたの手の業をすべて祝福された」。
神は一人一人の「手の業」つまり労働を祝福された。だから、ここでは略奪は許されないし、搾取も許されない。正常に働けば食っていける。これが労働の祝福である。祝福された労働の結果が安息日である。そこには労働を軽視する、軽蔑する思想は微塵もない。自分が生きるために必要な糧はそれぞれ自分に与えられた能力に従って働くことによって得る。これが神による「労働観」「労働の神聖性」である。ところが労働が歪められると、宗教による「安息日の強制」が始まる。強制された安息日は、労働の神聖性を奪う。宗教が労働蔑視を産む。安息日の祝福は労働の祝福の一つの形であり、強制された安息日は「神による祝福」から遠い。

2017 日々の聖句 11月20日(月)
あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:2)

イエスは群衆に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。(ルカ8:21)

私の黙想:
いわゆる聖書信仰、書かれた御言葉、固定化された神の意志。生きるということは、生命体は固定化できない。「生きている神」、神は生きているという信仰。石碑に収められない神の言葉。神の生命が「霊」。霊は自由だ。聖書とイエス。聖書の中のイエス。イエスの中で生きている御言葉。イエスは神ご自身が書き加えた御言葉、「何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」と命じる神が、書き加えた頁である。そこに旧約聖書の信仰と新約聖書の信仰との違いがある。

2017 日々の聖句 11月21日(火)
憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。(詩112:5)

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6:31)

私の黙想:
詩112は模範的な信仰者の生き方とそれへの讃美である。短い詩であるから、繰り返し反復したい。10節にはその逆の人の運命が述べられている。ところで、今日の聖句で「彼の言葉は支えられる」とは一体どういうことであろう。最後の審判の時に、彼の普段の言動が評価される、という意味であろうか。口語訳ではほとんど意味をなさない。フランシスコ会訳では「その人は正直にことを進める」、口語訳と似たり寄ったり。新改訳は面白い。「自分のことを公正に取り行う」。つまり、隣人との貸借関係において公正だということであろう。多くの場合、「貸し与えた場合」その人との人間会計において上下関係が生じるが、そういうことにならない人は立派な人だというのであろう。岩波訳では「おのが事柄を公正に処理する人」、たとえ誰かのことをおもんぱかって忖度したとしても、それを公正に処理する。そこに、不信が起こらない。
文語訳は素晴らしい。「恵みをほどこし貸すことをなすものは幸いなり。かかる人は審判をうくるときに己が訴えを支え得べし」。忖度が悪いわけではない。ただし、忖度はあくまでも公正に行われなければならない。

2017 日々の聖句 11月22日(水)
お救いください(、あなたの民を)。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。(詩28:9)

イエスの言葉:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ10:16)

私の黙想:
今日の聖句、多分、口語訳の方を採用すべきだったのではないだろうか。口語訳、「どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください」。口語訳には「牧者になって」という言葉がある。フランシスコ会訳「彼らを牧し」、新改訳「羊飼いとなって」、岩波訳では「養い育ててください」と訳した上で、注釈で「牧者が羊に対するように」、文語訳はスゴーイ。「なんじの民を救い、なんじの嗣業をさきわい、かつ、これを養いこれを永遠に懐き助け給え」。
それよりも、この聖句では「あなたの嗣業の民」の方にポイントがある。この「嗣業」という言葉、旧約聖書独自の言葉である。通常は、継承したもの、遺産、家業という意味であるが、この句ではむしろイスラエルの民が「ヤハウェの嗣業」という意味になっている。新改訳では「あなたのものである民」、フランシスコ会訳では「御自分の民」と訳されている。つまりイスラエルの民自身がヤハウェの財産であり、だからそれを羊飼いが大切に育てるように、大いに祝福してください、という祈りになっている。

2017 日々の聖句 11月23日(木)
あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、主よ、わたしは力づけられます。(詩119:52)

マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(ルカ10:39)

私の黙想:
司法の安定性は国民にとって最後の砦である。権力者が司法をいじくり回したら、国情は荒れる。今日の聖句はそういう意味にその意味で、裁判の公正性は「神聖」である。ところで口語訳では、「主よ、わたしはあなたの昔からのおきてを思い出して、みずから慰めます」。2つの「翻訳文」の違いは、実に面白い。新共同訳では、行儀正しく、ツンと澄まして司法の公正さを述べている。それに対して、口語訳では、明らかに、現状に対する不満が感じられる。「昔は良かった」という現在の権力者に対する皮肉だ。フランシスコ会訳ではその点がもっとはっきりしている。「主よ、わたしはあなたの昔からの裁きを思い起こし、慰めを得ました」。私の気持ちは間違いでない。裁判というものはこうあるべきだという思いによって「慰められる」。そういう思いが51節にははっきり出ている。「高ぶるものがひどくわたしをあざ笑います。しかし、わたしはあなたの教えからそれたことがありません」(フランシスコ会訳)。53節はもっと激しい。「あなたのみ教えをすてる悪者どものために、激しい怒りが私を捕らえます」(新改訳)。それらをすべてまとめて、岩波訳でホッとする「傲慢なものらはおおいに私を嘲笑したが、あなたの律法から私は外れなかった。とこしえよりのあなたの法を私は思い起こし、ヤハウェよ、私は励まされた。激怒が私をとらえた。アナらの律法を棄てる不法者らのゆえに」。いろいろな翻訳を比べて読むと、面白い。

2017 日々の聖句 11月24日(金)
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。(詩9:19)

主が来られる日に、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(1テサロニケ4:17~18)

私の黙想:
「乏しい人」と「貧しい人」という言葉がの使い分けが分からない、ともかく大きな違いはないであろう。詩の文章だから言葉が重複することを避けたのであろう。ともかく貧乏人はヤハウェ(神さま)から忘れられることはない。「覚えられている」。永遠の神が覚えているということは、永遠である。では、そこでの「希望」とは何か。ズーッと、永遠に「貧乏」であることが忘れられないというのだろうか。まぁ、それも仕方がないとは思うが、せっかく神さまに覚えられているのなら、何か良いこともなければ困りますよね。フランシスコ会訳では「希望はいつまでもむなしくなることはない」と訳されている。実は今日の聖句の翻訳には難しい問題が含まれている。口語訳では「貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない」。「貧しい者は常に忘れられる」という現実があって、それを否定する文章になっている。いわば一種の二重否定である。後半の文章も「苦しむ者の望み」が「とこしえに滅びるのではない」と否定されている。この二重否定によって世の中の「常識」を覆している。
貧乏人は永遠に貧乏で、絶望は何時までも絶望ではない。必ず、それがひっくり返るときが来る。

2017 日々の聖句 11月25日(土)
(だから、)あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。(ヨシュア23:11)

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(1ヨハネ4:16)

私の黙想:
いわゆるアンフィクチオニー契約、ヤハウェは約束の地の先住者たちをみな追い払ってくださった。「だから」、イスラエルの民はと、今日の聖句は続く。「だから」を抜いてしまったら、意味が半減する。これが旧約聖書の「宗教(神への愛)」である。病室なので注解書も他の翻訳も見られない。手元にあるのは口語訳だけ。口語訳ではこうなっている。「それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない」。「心を込めて」と「深く慎む」とはどう違うのか。問題は「神への愛」、宗教である。宗教においては「心を込めて」は生命線である。ところが宗教ほど「心を込めない」形式主義に陥りやすい人間の営みはない。それは神への「深く慎む」という姿勢に表れる。それこそ、まさにファリサイ派の人々とイエスの姿勢との著しい態度であろう。
今回は読みかけの『キリスト教は「宗教」ではない』だけを鞄に入れてきた。だから、どうしてもその視点でものを考えてしまう。

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