ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

2010年を振り返って

2010-12-31 17:46:17 | ときのまにまに
ともかく今年も大晦日になりました。何かいろんなことをし残したように思います。それも、いつものことで仕方がないことでしょう。と言って、改めて何をし残したのだろうかと考えてみても一つも思いつきません。それもそうです。今は、何時いつまでに何かをしなければならないという約束や予定のない生活をしている私自身をそこに見出します。じゃ張りのない退屈な毎日を繰り返しているのかというと、とんでもない。毎日が実に充実し、楽しく、しなければならないことに追われ気味なのです。
私にとって、今年とくに大きな出来事はツイッターとの出会いであり、もう一つはローズンゲンの再発見です。
私がツイッターを始め鰖のが今年の1月7日で、その日のブログで次のようなことを書いています。
<今朝の天声人語によると鳩山首相がブログ「鳩cafe」とツイッターを始めたとのこと。天声人語子によると、それを聞いた自民党の加藤紘一氏は「日本中でツイッターを一番やっちゃいけないのが総理」ということらしいが、確かにそれが正論であろう。>
と書きつつ、首相がツイッターをするのには首をかしげつつ、一般庶民である「私」がツイッターをすることには何も問題はないと思ったようで、これが切っ掛けになってツイッターを始めました。
<わたしも今日からツイッターを始めた。わたしにとってはこれは「発信」のためというよりも「受信」のためで、結構面白そうである。そういえば「つぶやき」は「発信以前」の「ぼやき」に近い独り言である。「ぼやき」のよさは、論理や理屈や主張が要らないことで、「本音」に聞こえるが本音ではない。隣の人に聞こえたら困るが、聞いて欲しい。そんなことがこれから益々増えそうである。>
この時の私の「発信のため」というよりも「受信のため」というのは案外正解であったようで、現在では当代一のツイッターの使い手フリージャーナリスト上杉隆氏もツイッターというメディアは「アウトプット」のためのツールというよりも「インプット」のためのツールであると言っています。ややともすると「外部」との関係が断絶しそうな老人にとってはまたとない情報収集の道具で、沢山の情報、玉石混淆の雑多なニュースがリアルタイムで聞こえてきます。
しばらくリードオンリーでツイッターを読んでいましたが、だんだんと慣れてくると、昔私が個人的なデボーション(霊想)のために使っていたローズンゲンを読んで思ったことをツイッターで囁くことを思いつきました。それで早速本屋に注文して今年のローズンゲンを取り寄せ、3月1日からトライしてみました。
3月1日のブログで。ローズンゲンのことについて詳しく説明し、次のように書いています。
<わたしがツイッターを始めて思ったことは、ローズンゲンというデヴォーションはツイッターというメディアと相性がいいということで、わたし自身のモーニングセットの中にローズンゲンを組み込むことにいたしました。ローズンゲンを読み、ただ1人思ったことを呟くだけではなく、その呟きを他の人たちとも分かち合い、また他の人たちの呟きも聞きたいと思います。ローズンゲンはどんな読み方をしてもOKです。読まない日があってもかまいません。もともと籤で選ばれた言葉です。一日の分は一日で終わりです。ある意味では聖書の断片的な読み方です。基本的には文脈とか背景からも独立しています。続いているのは、読む人の生活だけです。>
ツイッターでローズンゲンを囀り始めてから、時々見知らぬ方からのレスポンスがあります。そうなると、もう「休む」わけにはいかなくなり、毎朝の楽しみにもなりました。同時に、ローズンゲンを媒介にした出会いもあり、非常な励みにもなります。それ以後、ほとんど毎朝、朝のご挨拶と共にローズンゲンを発信することができました。


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