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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/12/18~12/24

2016-12-25 06:13:18 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/12/18~12/24

2016 日々の聖句 12月18日(日)
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を塵の中から起こし(、乏しい者を芥の中から高く上げ)てくださる。(詩113:5~7)

パウロの言葉:キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。(2コリント13:4)

私の黙想:
今日の聖句、一体ヤハウェはどこから「ご覧になる」のだろうか。「ご覧になる」ためには、高い「御座」の方がよく見えるのではないだろうか。よく見た上で、「低く下る」のではなかろうか。それとも神の目線があまりにも高すぎて、よく見えないので、「下った」のだろうか。目の位置はともかく、ヤハウェは「弱いものを塵の中から起こす」ために働いておられる。少しニュアンスは違うが、「乏しい者を芥の中から高く上げる」とほとんど同じ意味の言葉が繰り返されている。日本語の「日々の聖句」では後の部分を省略している。まぁ時間つぶしのようなことを述べた上で、今日の聖句は「マリアの賛歌」の中心部分の下敷きになっている。「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」(ルカ1:52b~53a)、神の救済の業はここから始まった。「塵の中から」弱い、そして貧しいマリアを選び出し、「起こし」「高く上げ」られた。マリアを選び出すまでのヤハウェの苦労が偲ばれる。高い御座からはマリアは見えなかったんであろう。だから、「低く下られた」。み子イエスの謙卑(フィリピ2:7~8)の前に、ヤハウェご自身の謙卑があった。(「謙卑(けんぴ)」、キリストの謙りを言い表す古典的な神学用語、謙って奴隷のようになること)

2016 日々の聖句 12月19日(月)
神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる。(詩97:11)

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイ2:10)

私の黙想:
「種蒔いてくださる」、なかなか面白い表現だ。口語訳では何と訳しているのだろう。「光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる」。あれっ、ないじゃないか。フランシスコ会訳では「義人には種の蒔かれた畑があり、心の正しい者には喜びがある」。これも違う。それでは新改訳はどうなっている。「光は、正しい者のために種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」。さすがに新改訳、説教する意欲が出てくる翻訳だ。だんだん原文が透けて見えてくる。どうやら岩波訳が素直に原文通りのような気がする。「義人には光が撒かれ、心の直き者たちには喜びが」。そして例によって注釈、「異本、70人訳等『光が昇った』。なる程口語訳はこれを「現れた」と解しているのだろう。要するに「義人、あるいは正直者」には「喜びの光が散りばめられている」。それは同時に、義人や正直者は喜びの光をまき散らしている。形の良い樅の木に、クリスマスの飾りが沢山つり下げられている情景を思い起こす。

2016 日々の聖句 12月20日(火)
神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。(ヨブ9:10)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

私の黙想:
ヨブ記9章、信仰深いヨブから神に抗議するヨブへの転換点にある。今日の聖句は、一口でいうと、頭の中で理解している神と現実に働いている神とのギャップを語る。そのギャップは神の側のギャップと言うより人間側のギャップである。10節では、ヨブは頭の中での神について語る。神の偉大さについてははっきりと告白できる。ただ、その偉大さを人間は知り得ない。この知り得ないのは神は人間の想像を張るかに超えているからである。それに対して11節では、人間が神を知り得ないのは現実的な神の働きである。神が私の傍らを通って居られても、人間は神を認知できない。それこそ、神が私をぶん殴ったって、人間はそれを感知しない。感じない。頭の中での神と今わたしに接触しておられる神とのギャップである。これはヨブ記における大きなテーマである。天地を創造し運行しておられる神、それは「頭の中で」よく知っている神であるが、今、ヨブに関わっている神が分からない。

2016 日々の聖句 12月21日(水)
災いだ、賄賂を取って悪人を弁護し、正しい人の正しさを退ける勇者は。(イザヤ5:22,23)

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ7:2)

私の黙想:
社会は下から腐敗するのではなく、上から腐敗する。これはどこの社会にも当て嵌まる鉄則である。現在の日本は上からの腐敗が烈しく進行中。「悪人を弁護し」だからと言って弁護士のことではない。裁判官のことである。裁判官が賄賂を取る、悪人に有利は判決を下す。「正しい人の正しさを退ける」が、初めの二つよりも最も悪の度合いが深い。この部分口語訳では「義人からその義を奪う」と訳している。「義人からその義を奪う」のは裁判官だけではない。国家権力としてのケイサツだけでもない。マスコミもそれに加担するが、具体的にそれを実行するのは大衆である。このようにして、上の方からの腐敗は下の方にまで及ぶ。人びとは何が正義で、何が悪か分からなくなる。大衆が目覚めるほかはない。
韓国における反大統領運動、まだ分からない部分はあるが、社会の上層部の腐敗に対する一般大衆の反撥は凄まじい。上層部の腐敗に対してはこういう形でしか、対処できないのであろう。隣国の問題に他国が口出しをすることはできないが、問題は我が国である。沖縄問題である。オスプレイ問題である。上層部の腐敗は明らかであるし、司法もそれに加担している。マスコミも自分たちの利害にしか関心はなさそうである。彼らはここで常に「勇者(勝ち組)」の側に立とうとする。これに対する下からの反撥は「数」によるしかない。

2016 日々の聖句 12月22日(木)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)

信仰によって、エリコの城壁は、(人々が周りを七日間回った後、)崩れ落ちました。

私の黙想:
謎の金の燭台、7つの枝が付いた燭台は、主ご自身を象徴しているのか。かなり仰々しいが、これがユダヤの一般家庭において用いられている燭台である。ゼルバベルとは、捕囚後の帰還組の政治的指導者。
今日の聖句は、預言者ゼカリヤと天使との会話で、天使は問う。何が見えるか。預言者は答える。燭台とそれを挟んで立っている2本のオリーブの木。天使はさらに問う。これが何を意味するのか分かるか。わかる筈がない。預言者にしたら、要するに日常的に見ている風景である。預言者答える、「分かりません」。そこで天使が語った言葉が今日の聖句であり、それがゼルバベルに対する国家再建という大事業についてのヤハウェの指導である。私も何のことか判らない。そこで天使はその謎を解く。「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」(4:14)。二人の「油注がれた者」とは誰か。「武力と権力」とに代わる二つの理念、ここでは恐らくゼルバベル(政治的指導者)と大祭司ヨシュアであろうとされる。要するに、新しいユダヤ人共同体は、通常の国家形態を取らず、あくまでも「宗教共同体」として生きよという預言であろう。

2016 日々の聖句 12月23日(金)
地の果てまですべての人が主を認めますように。(詩22:28)

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1:9)

私の黙想:
今日の聖句、一応、一人のキリスト者として、そうなることを願います。それ以上何を黙想すべきなのだろうか。おそらく問題は「主を認める」ということの内容、その実態とは何か。あるいは、大きな立場に立って、私は、果たして、そんなことを本当に願っているのだろうか。無神論者であれ、他宗教の人であれ、その人がその人として、幸せならば、それでいいじゃないか、とも思う。世の中、全部キリスト者になったら、それはそれで、いろいろな考え方でセクトが生まれ、やはりお互いに対立するのじゃないだろうか。それは現在の宗教対立より酷い可能性も十分ありうる。
ということで、何か手がかりがあるかと思い、口語訳を見る。「地のはての者はみな思い出して、主に帰り」とある。「認める」とはかなり違う。「地の果てまで全ての人」が私たちの宣教によって初めて「主を認める」のではない。彼ら自身の中に、初めから「主」は認められているが、いまはそれを「忘れている」だけで、それを思い出せば良いという。信仰とは自分の中にある者を思い出すことだという。フランシスコ会訳も、新改訳も、文語訳も岩波訳もほぼ口語訳と同じ。あ〜あ、いつものパターンだ。新共同訳だけが違う。しかもその違いは「単純化」である。新共同訳だけを読んでいるキリスト者は私たちとは違うキリスト者になる恐れがある。
信仰とは何か新しいこと、異質なこと、違和感のあることを「認める」ことではなく、すべての人間の婚展に既にあることを想起し、そこに立ち帰ることであるという。その意味で一種の「気付き」である。聖餐式が、イエスと一緒にいた頃のことを想起する儀式であるといわれる。それが「記念(アナムネーシス)」斁言うことの本当の意味である。記念と想起とは一つのことの表と裏である。

2016 日々の聖句 12月24日(土)
わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも。(詩116:10)

もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)

私の黙想:
翻訳者の意図かどうか分からないが、詩116は三つの断定によって構成されている。「わたしは主を愛する」(1節)、「わたしは御名を呼ぶ」(4節)、そして「わたしは信じる」だ。この3つの言葉は強い。特にその3番目は烈しい。そして、「主はわたしに報いてくださった」(12節)、その上で「わたしはどのように答えようか」という。その構成から見ると、口語訳の「わたしは大いに悩んだ」と言った時にもなお信じた、という訳は、単独では名文句ではあるが、自然体としては弱い。文語訳の「われ大いに艱めりと言いつつも、なお信じたり」という言葉は名文である。
岩波訳の註解によると、10節の前に「ハレルヤ」があり、ここでこの詩は2分されているらしい。詩113から詩116までは70人訳およびその写本によって、区分けがかなり混乱しているらしい。(今朝は一応、そのことは無視しておく)
「愛する」「祈る」「信じる」、これらは信仰者の基本姿勢を示している。これを断定的に語ることによって、この詩は生き生きとしてくる。今夕はクリスマス・イヴだ。明日はクリスマス。この詩こそが、降臨節を結ぶ、まとめの詩となる。

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