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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/6/3~6/9

2018-06-09 11:01:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/6/3~6/9

2018 日々の聖句 6月3日(日)
まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。憐れみに富み、情け深く、正しい光が。(詩112:4)

喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。(コロサイ1:11~12)

私の黙想:
気が進まないが、先ずケチを付ける。今日の聖句の後半、光が「憐れみに富み、情け深く、正しい」という。光は光であろう。置かれた状況でひかりが「邪魔」な場合もあれば恵みぶかい場合もある。光は、光である。前半の言葉も据わりが悪い。というわけで、口語訳ではこうだ。「光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる」。こんなに美しい日本語訳があるのに、なぜ不細工な日本語を並べるのだろうか。新共同訳はそれまでの訳を「変える」ことに意味があるのではなく、基本はプロテスタントとカトリックとが共通に用いることが出来るという点にあるのであろう。因みにカトリック独自の訳を見ると、「その人は闇の中で、正しい者を照らす光として現れ、憐れみ深く親切で正しい」。意味している点は同じ原文とは思えないほどの違いがあるが、それなりに文意はとおっている。これらを比べて、初めて読者はどちらの方が自分に響くかと考えることが出来る。原文に近いと定評のある新改訳では「主は直ぐな人たちのために、光を闇の中に輝かす。主は情け深く、憐れみ深く、正しくあられる」。非常に明解で疑問の余地がない。岩波訳では「ここでの光とはヤハウェご自身を示す」と解説している。これで、今日の聖句については完璧だ。

2018 日々の聖句 6月4日(月)
主の言葉:彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。(わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。)(詩91:14)

イエスの言葉:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)

私の黙想:
今日の聖句は1節の前半だかであり、後半もほぼ同じ主旨の言葉が繰り返されている。要するに主旨は特別な「コネ」である。現在、日本で大問題だから「首相の案件」だからとか、首相夫人と特別な関係があるからと「忖度」するのと同じことを言っているように思う。どうだろう、違うだろうか。
ところが口語訳になると少し違う。「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう」。ここでは「コネ」というより執拗さが問題である。ここで思い出すのはイエスが祈りについて、本当何ら聞いてやる必要はないが、あまりにも執拗に願い、その執拗さに大変迷惑なので、願いを聞いてやるというパン屋の話がある。「しかし言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ11:8)。
今日の聖句口語訳では、「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう」。ここでの重要なポイントは「離れないゆえに」にある。原文ではただ「慕う」とか「愛する」だけではなく「chashaq」で、「しがみつき離れない」という単語である、口語訳だけがそれを訳している。

2018 日々の聖句 6月5日(火)
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。(民数記21:7)

イエスは言われた。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ8:36)

私の黙想:
今日の聖句の背景になっている事件は面白い。あれほど偶像礼拝を批判し禁止しているにも拘わらず、ここでは一種の偶像礼拝がなされた事件である。
荒れ地を徘徊するイスラエルの民はその苦しさに堪えられなくなって、ヤハウェとモーセに文句を言う。何故、我々をエジプトから引き出したのだ。エジプトにおれば、こんなに苦労することもなかったし、すき焼きくらいは食べられた。モーセも困ってしまって、ヤハウェに相談する。それを聞いたヤハウェは怒り、「炎の蛇(おそらく毒蛇)」を民の中に放り込む。炎の蛇は大暴れし、大人も子供もみさかなく多くの人々をかみ殺した。
それでたまらなくなった民たちはモーセの元に来て、自分たちが不満を言った過ちを認め、ヤハウェの赦しを求めた。その時のセリフが今日の聖句である。
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。
それを聞いた、ヤハウェは青銅で「炎の蛇」を造るように命じ、それを高い旗竿の上に結びつけさせ、それを見上げた者は救われるという。人々とはヤハウェの言う通りにして、民は何とか救われた(9)。
これは明らかに偶像礼拝に通じる出来事であるが、実はヨハネ福音書ではこの出来事を十字架の上にかけられたイエスを仰ぎ見れば救われるというメッセージにとしている。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(14)。

2018 日々の聖句 6月6日(水)
わたしの主なる神は、わが力。(ハバクク3:19)

わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。

私の黙想:
今日の聖句そのものについては、どういう翻訳文であろうと、「アーメン」で完了。こういう場合は、「戦う力」でも、何かをする力でもなく、ただ単純に「生きる力」である。
その上で、新共同訳について一言ケチを付けておく。なぜ、この短い文章で、わざわざ「わたしの」と「わが」とを使い分けるのか理由がわからない。因みに口語訳では「主なる神はわたしの力であって」である。文語訳では「主ヱホバは我力にして」、フランシスコ会訳ではすなおに、「わたしの主なる神はわたしの力」、新改訳はチョット凝って「私の主、神は私の力」。関根訳は「主ヤハウェは我が力」、岩波訳は「我が主(なる)ヤハウェは我が力」。
どう訳しても勝手であるし意味さえ通じたらいい、とはいうもののこういう細かいところにも細かい配慮が要求されるのが聖書の翻訳である。それにしても、新共同訳だけは頂けない。

2018 日々の聖句 6月7日(木)
兄弟たちに対するヨセフの言葉:あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、(多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。)(創世記50:20)

憐れみは裁きに打ち勝つのです。(ヤコブ2:13)

私の黙想:
今日の聖句は創世記の中でも最も劇的で感激するセリフの一つである。背景にある物語を述べるにはあまりにも紙幅が短くて到底語ることはできないので、すべて省略する(創世記37章、39章~50章)。ローズンゲンの編者も読者の意識をただ一点に絞り込むように無駄な言葉を一切はぶいていている。その一点とは「神はそれを善に変え」という一点である。
これはただ赦すとか赦されるという、謝罪したから和解物語というような平板な物語ではない。過去の歴史そのものを書き換えるような歴史観の問題である。神は人間が行うあらゆる悪、罪を善に変えるお方である。神といえども過去を書き換えることは出来ないが、過去の悪を善に作り替えることが出来る。人間が作り出すウソの歴史観ではなく、神による歴史理解そのものを作り替えである。
日本が朝鮮人に対して行った悪、この悪自体は消えない。朝鮮人の方からも決して赦することはできないであろう。賠償金で「ケリが付いた」と日本人が考えるのは気休めで、せいぜい歴史観の改変に過ぎない。しかし、そこに神が介入することによって「悪が善に変えられる」、どういう風にか、日本人が何をしたら赦されるのか、私には分からない。しかし、それをこの物語を読むことによって信じるしかない。

2018 日々の聖句 6月8日(金)
主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう。(イザヤ62:2)

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10:3)

私の黙想:
どういうことだろう。私にとって文屋善明以外にヤハウェが定めた新しいながあるというのだろうか。私は私で良いし、私の名前に満足している。アブラムがアブラハムに変えられたように、ヤコブがイスラエルに改名されたように、サウロがパウロに改名したように、私の名前を変えるというのだろうか。
主に逆らったのも私、主に従っているのもわたし。私にとって私の名前は恥であると同時に誇りでもある。今さら名前を変えられるのは、いくら相手が神でも嫌だ。
一体、預言者イザヤはこの言葉によって何を語ろうとしているのだろうか。
ここの文脈では「名前」とはその人自身を示す固有名詞ではなさそうである。「王」あるいは「王冠」、身分、立場を示すらしい。ヤハウェの下僕に過ぎない私に、新しい「地位」を与えて下さる。

2018 日々の聖句 6月9日(土)
主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。(歴代誌上28:9)
ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。(ヨハネ1:48)
私の黙想:
私のミスで、今日の黙想を昨日投稿してしまいました。一応削除はしましたが一部の方々の目に止まってしまっているので、それを再録する訳にいきませんので、改めて書き直しました。
今日の聖句はダビデ王が後継者である息子ソロモンに人間としての最も重要なことを教えている。とくに王者になると周囲の人々が寄ってたかって「王の失敗や欠陥」を隠蔽したり、時には王の思惑を先取りして便宜を図る(「忖度」ともいう)こともある。そういうことになると自分自身の実力を現実以上に思い込んでしまう。だから、王になったら特に注意し大切にしなければならないことは、王と言えどもその上に、「主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれる」ヤハウェがおられることを忘れてはならない。
このことは、大学の最高責任者になったときにも、また教区の責任者に選ればれたときにも、「大教会の」牧師になったときにも、気を付けなければならないことであるし、特に「主教」とか「監督」などと呼ばれるようになると気を付けなければならない。

【昨日誤って投稿してしまった私の黙想】
今日の聖句はダビデが全会衆の前で自分の後継者としてソロモンを後継者として宣言する場面である。今までにも繰り返し述べ得来たことではあるが、イスラエルの王制は他民族における王制と決定的に異なる。イスラエルの王は「絶対王権」ではない。王の上に絶対者であるヤハウェが存在し、王と家出もヤハウェの下僕に過ぎない。従って、イスラエルの王は絶対者であるヤハウェの下での王である。ダビデはそのことをソロモンに繰り返し教えている。
ところがソロモン王の治世の後半においてはしばしばその禁を犯す。その結果イスラエル王国は分裂する。
後継者選らびと職権の委譲はどこの世界でも難しいものである。ダビデ家においてもそのために国が分裂するような悲劇が展開したことは有名である。ダビデの長男はアブサロムで当然アブサロムが後継者であると重くされていたが、アブサロムに付いている連中に問題があり、ダビデは躊躇していた。アブサロムはなかなか権力の委譲がないために、遂に待ちきれずダビデから強奪しようとした。すったもんだの内戦の結果アブサロムが戦死し、ダビデは後継者にソロモンを選んだが、ソロモンはそもそも霊の不倫の息子であり、国内でも反対がなかったわけではないが、そう言う状況での権力の委譲の儀式がなされた。

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