ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 12/11~12/17

2011-12-19 08:23:07 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 12月11日(日):
わたしの時はあなたのみ手にあります。(詩31:15口語訳)
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられたものです。(2テモテ1:9)
私の黙想:
聖書において「時」という言葉が出て来たら要注意。しかも「わたしの」ときたら、それは一体何を意味するのであろうか。「わたしの時」何ってものは無い。私の時代、私の一生、私が決断すべき一瞬。新共同訳では「わたしの時」という言葉は見当たらない。11節の「年月はうめきの内に尽きていきます」を指しているのか。

今日のローズンゲン 12月12日(月):
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。(イザヤ35:6)
キリストの言葉:わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:10)
私の黙想:
「荒野」、これは未開の荒野ではなく、不信と争いによる人心の荒廃。荒廃の中にこそ、愛と平和の芽生えが見える。いや、見なければならないし、必ず希望の花が咲く。
札束でほっぺたをひっ叩いて得られる繁栄は人心を荒廃させ、廃墟の中で祈り、助け合うところから、新しい愛と平和の世界が拓かれる。

今日のローズンゲン 12月14日(水):
主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。(エズラ3:11)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(1コリント3:11)
私の黙想:
土台が肝心である。建物にせよ、人格にせよ、土台がしっかり据えられなくては危なかしい。キリスト教にせよ、教会にせよ、土台が重要だ。パウロは「福音」の土台をキリストの「死と復活」であるとし、マルコは「福音」の土台をイエスの「生と死」であるとする。

今日のローズンゲン 12月15日(木):
わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません。(詩71:15)
あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。(2コリント6:14)
私の黙想:
感謝の気持ちを言い尽くせないということ。視点を変えると、神の恵みのみ業は人間の理解の範囲を遥かに超えている。いや、もっと単純に神については人間は語り得ないという「否定神学」、「~~~ではない」という否定的な表現でしか神について語れないということ。

今日のローズンゲン 12月16日(金):
わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。(詩40:17、口語訳)
あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示し、物乞いのようであって、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(2コリント6:4,10)
私の黙想:
貧しさとは何か。物質的欠乏か。豊かさとは何か。所有物の多さか。それらは一寸した社会変動によって全て奪われてしまうではないか。敗戦で全ての物を満州に置いて「着の身着の儘」、「骨皮筋右衛門」状態で帰国した私にとって、それらは全て虚しい物質に過ぎない。真の豊かさとはそれらに依存しない生き方である。

今日のローズンゲン 12月17日(土):
民は、彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたことを喜んだ。(1歴代29:9)
あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。(2コリント8:7)
私の黙想:
国家権力の横暴さは、国民にボランティア精神を強要することにある。最もわかりやすい例は徴兵制度であるが、最も身近な例では税金がある。社会は相互扶助という善意(ボランティア精神)によって支えられているが、この善意を税金に置き換えるのが国家である。

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