ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/05/15~05/21

2016-05-22 06:33:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/05/15~05/21

2016 日々の聖句 05月15日(日)
心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから、迷い出ることのないようにしてください。(Ps.119:10)

食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。(Heb.13:9)

私の黙想:
今日の聖句、優等生過ぎて取り付く島もない。と、こういう場合、一寸捻くれてみたくなるのが私の悪い癖。「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます」、そんなことをしていたら、毎日の私の務めを果たせないではないか。私の為すべき様々な雑用、それがたとえ「暇つぶし」に過ぎなくても、「心を尽くして」というわけにはいかない。それに没頭しているときには「あなたのこと」など忘れている。だから、私の祈りは「たとえあなたのことを忘れても、あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください」となる。随分、身勝手なお願いですが、そのようにしてください。

2016 日々の聖句 05月16日(月)
わたしは彼に答え、「彼こそわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。(Zec.13:9)

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来た。(1Pet.2:25)

私の黙想:
今日の聖句を読んで変なことを思い出してしまった。私の若い頃、こんな歌が流行った。「あなたと呼べば♪ あなたと答える♪ 山のこだまの嬉しさよ♪ 『あなた』、『なんだい』♪ 空は青空 二人は若い♪」(
作詞:サトウ・ハチロー 作曲:古賀政男)軽快な、ディック・ミネの声を思い起こす。前半の「あなた」と「あなた」は山のこだまであるが、後半の「あなた」と「なんだい」はもはやこだまではない。人と人との会話の始まりである。正直言って、この歌は私より一世代前に流行ったのだと思う。これを聞いていた私はまだ子どもだったと思い出す。私にとっては一種の「恋愛願望」であった。近頃は「若い者は」このような「甘い恋愛感情」あるいは情緒というものがなくなったように見える。男女の関係も非常に即物的になった、ように思う。
今日の聖句にはこの種の「甘さ」がある。また、変なことを考えてしまった。男女関係の始まりである。男性が初めて女性を見たとき何と言ったか。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これこそ女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから」(Gen.2:23)。あんまり今日の聖句と関係なかった?たまには、こんな的外れもお許しください。

2016 日々の聖句 05月17日(火)
あなたたちは主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者とされる。(Isa.61:6)

パウロのテモテへの手紙:あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。(2Tim.1:6)

私の黙想:
イザヤ書61章の週末の預言。読む者によってこれ程評価が変わる文章も珍しい。ここでは終末時にイスラエルに与えられる祝福、つまり民族としてのイスラエルの栄光の回復が謳われている。異民族によって略奪されていた国土が返還され、他国の人々がイスラエルのために「羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする」(5節)という。その時にはイスラエルの民は彼ら、つまり全世界の諸国民のための「祭司」となるという。つまり、労働をしない階級となる。まぁ、そこまでは一種の民族的希望として読めるが、次がえげつない。「神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」。何とまぁ、彼らはこんなことを夢見ていたのか。聖書の言葉を前後の文脈から切り離して、一つの断片として読むことの恐ろしさである。今日のイザヤの聖句をパウロのテモテへの手紙と合わせて読むと、聖職者の特権的立場が無反省的に誉め讃えている。「神に仕える者」とは「人にも仕える者」でなければならない。

2016 日々の聖句 05月18日(水)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(Lev.19:2)

あなたがたは、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(Eph.4:24)

私の黙想:
こんなこと命じられたら、「神の助けによって努めます」(祈祷書277頁、洗礼式の時の誓約の言葉)と答えるしかないではないか。要するに「神のようになれ」ということで、そんなことはとうてい私の努力によって出来ることではないし、もし、私が「神のようになろう」などと決心したら、それは「罪の中の罪」「人類最大の罪ではないか」。エデンの園で神から食べることを禁止されていた果物、エヴァは蛇から「これを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(Gen.3:5)と唆され、ついに手を伸ばして食べてしまった。そして、確かに「目が開かれた」そこで見たものは「醜い人間の姿」であった。
「神のようになれ」という言葉は神からのメッセージであると共に、サタンからのメッセージでもある。

2016 日々の聖句 05月19日(木)
肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(Isa.40:6,8)

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(Mk.13:31)

私の黙想:
ここでの「肉なる者」とは、人間だけではない。人間を中心とする万物を含む。それらは全て初めがあり、終わりがある。それらの「存在者」の有限性と神の言葉の永遠性とが対比されている。まさに「時と永遠」(波多野精一先生の主著の書名)。万物は神の言葉によって成り、神の言葉によって滅する。それはもはや「言葉」という言葉で把握できるものではない。言葉の根源としての「永遠の意志」である。

2016 日々の聖句 05月20日(金)
悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。(Ex.23:1)

偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。(Eph.4:25)

私の黙想:
「嘘をついてはいけない」ということが、人間として最初に教えられる倫理である。しかし、成人するにつれ、嘘の現実に触れ、嘘をつくことを学ぶ。嘘にも「いい嘘」もあれば「悪い嘘」もある。時には嘘をつくことが誠実でさを貫くという場面もある。知っていても、知らないと言うことで、社会が保たれている場合もある。時には嘘をつかないということによって、殺される場合もある。教会なんて「嘘の固まり」だと思わざるを得ない時もある。信じてもいないのに、大きな声で「信じています」と告白する。それでも、教会の第1の倫理は「嘘をつかない」ということであることには違いない。嘘を貫くことによって「真実」に到達する。
今日の聖句は、裁判所での「証言」である。ここでは「嘘をついてはならない」。嘘をつくことによって、もっと大きな「悪」に加担することになる。今日の聖句を中心にして、1節から9節までは、お互いに肝に銘じるべき言葉が並んであり。フランシスコ会訳が面白いので紹介しておく。
「『根も葉もないうわさを口にしてはならない。悪人に手を貸して暴虐を助長する証人になってはならない。多数に追従して悪を行ってはならない。訴訟において多数に追従して道から外れ、正義を曲げるような証言をしてはならない。また、訴訟において依怙贔屓して弱い人の肩を持ってはならない。お前の敵の牛またろばが迷っているのに出合ったとき、必ずそれを彼のもとに連れて行かなければならない。お前を憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見た場合、素通りして彼を見捨てることなく、彼と共にそれを苦境から助け出さなければならない。貧しい人の訴訟において、彼に帰すべき権利を曲げてはならない。偽りの発言から遠ざからなければならない。罪のない人や正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を正しいとすることはないからである。賄賂を受けてはならない。賄賂は見える人の目を見えなくし、正しい人の言葉をゆがめるからである。在留する他国の者を虐げてはならない。お前もかつてエジプトの地に在留する他国の者であり、他国の者の気持ちを知っているからである』」(Ex.23:1~9)。
何と具体的で分かりやすいことか。これが聖書が語る「倫理」である。

2016 日々の聖句 05月21日(土)
主は太陽、盾。(Ps.84:12)

だから、思い悩むな。(Mt.6:31)

私の黙想:
今日の聖句、短すぎて、黙想の幅が広がらない。「太陽と盾」、どんな関係だろう。口語訳では「主なる神は日です、盾です」。岩波訳では「ヤハウェを太陽に譬えた例は他に無く、防具の一種を現す語とする説もある、と注釈している。そうかも知れないが、巡礼者にとって「太陽が輝く昼間」は最高の防具かも知れない。不安の夜を過ごした朝、太陽が昇るのを見てヤハウェの守りを感じたのかも知れない。そうすると「太陽」と訳すのも「日」と訳すのも共に「有り」か。
地震で住居を破壊され、避難所やマイカーで、不安な夜を過ごした人々にとって、太陽が輝く朝はどんなに大きな慰めであろうか。

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