ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/08/24~08/30

2014-08-31 10:27:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/08/24~08/30

2014日々の聖句 08月24日(日)
わたしたちの力の神に向かって喜び歌え。(詩81:2)
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。(黙示録19:7)

私の黙想:
TVを通していろいろな民族の喜び方を見ていると、踊り、歌っている。大の大人が手をつなぎ踊りまわっている姿を見ていて、不快な感じはしない。日本でも、子どもたちは幼ければ幼いほど、うれしい時に踊り、歌い、体を使って喜びを表現している。それは全く自由な表現である。
日本各地の祭りを見ると、確かにその身体表現は激しいが、どこか「作法に従っている」という感じが強く、嬉しくて踊り、歌うという感じから程遠い。日本人の大人の喜び方は「嬉し泣き」ということのように思われる。そしてそれは「はしたない行為」と思われている。
どうも、日本人の大人は自由な感情表現が下手なように思う。これは一体どこから、何の影響でそうなってしまったのか。「喜び方の作法」、「作法に従って喜ぶ」、何か喜ぶという人間の基本的感情表現から「自由さ」が奪われているように思う。

2014日々の聖句 08月25日(月)
約束なさったとおり、その民イスラエルに安住の地を与えてくださった主はたたえられますように。(列王記上8:56)
キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)

私の黙想:
ここでの「約束」とはヤハウェとモーセとの約束(シナイ契約)を意味する。今日の聖句エルサレムの神殿の竣工式でのソロモン王の祈りに続く言葉である。従って、この言葉はダビデ・ソロモン王朝がシナイ契約の正統な後継者であることの宣言であり、それは同時にソロモン自身がダビデの正統な後継者であることの宣言でもある。
「権力の正統性」はその権力が大きければ大きいほど、重要な課題となる。ダビデ王の場合もかなり複雑な手続きによって全イスラエルの王に就任した。ダビデ王の後継者問題については血を流すほどの激しい争い(内乱)が記録されている。その内乱の末、漁夫の利を得たかのようにしてソロモンが王に就任した。その意味ではエルサレムの神殿の建築ということは非常に重要な意味を持った。
今日の社会においては権力の正統性は民主的な選挙に基づいている。もし、その選挙の手続きに欠陥があれば、その権力の正統性は疑われ、権力基盤が崩れる。

2014日々の聖句 08月26日(火)
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。(1サムエル2:2)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(1コリント3:11)

私の黙想:
不妊の女として蔑まされていたハンナに、「長い祈り」(1:12)の結果、息子サムエルが与えられた。ハンナは息子サムエルを神に捧げることを約束する。サムエルが3歳になったとき、母ハンナは息子を捧げるために祭司の元を訪ね、委ねる。その時のハンナの賛歌。おそらくハンナの心は、子供を手元に置いておきたいという母としての気持ちと、神に対する忠誠心とに大きく揺れていたであろう。この子は私の子であり、この子によって私の名誉は回復し、この子によって私は救われた。と同時に、この子は私の子ではない。神から与えられた「約束の子」である。夫エルカナは「お前の思うようにすればいい」と言ってくれている(1:23)。今、私は決断しなければならない。揺れ動く心を抑えて、今日の聖句、「やはり頼りになるのは神だけだ」。この子を神に委ねよう。私の思いも、願いも、全てこの子とともに神に委ねよう。この思いが「岩」という言葉に凝縮されている。
その時、ハンナも知らない、父エルカナも知らない、祭司エリも知らない、誰も知らない、民族全体の歴史を決定する大きな出来事が起こり始めたのである。時代のうねりは一粒のカラシ種のような、一つの決断によって始まる。

2014日々の聖句 08月27日(水)
あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。(レビ26:5)
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。(ヨハネ6:11)

私の黙想:
「豊かな食料(=経済的繁栄)と平和」の保障、これが民族としての政治的目標である。これは3節の「 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、という条件のもとに与えられる。これがイスラエルの民とヤハウェとの契約である。この条件は民族内に全ての種類の「偶像」を撤廃するということによって実現される。非常に易しい条件である。いわば当然のことである。偶像とは偽りの神であり、偽りの象徴である。しかし、その偽りの象徴を目の前に置かれる時、国民はそれがホンモノであり、実現可能な豊かさを保障するものであるかのように思ってしまう。いな、思わされてしまう。一つの偽りが二つの偽りを生み、二つの偽りが四つの偽りを生み、それは神話化され、人々はその偶像の前で「踊る」。かくして、民族内は偽りで充満する。
偶像礼拝を馬鹿にしてはならない。偶像礼拝は「安全神話」を生み出し、国を滅ぼすことになる。
「聴く耳ある者は聴くべし」(マルコ4:9、4:23、7:16)。

2014日々の聖句 08月28日(木)
彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。(イザヤ65:24)
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。(エフェソ3:20~21)

私の黙想:
「先行的恩寵」、恩寵のほうが願望より先行するという思想。主の祈りの前提になっている思想は、「異邦人のようにくどくど祈ってはならない」ということ。その文脈でイエスは次のように言う。「彼らのまねをしてはならない。あなた方の父は願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:8)。
ここで預言者イザヤが語る内容は壮大である。人間がどれほど欲深いとしても、ここまでは願うことはできないであろう。思うことも、口にすることもできないほどのスケールの出来事がこれから起こる。「狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。誰がこんなことを想定できるだろうか。傲慢で、貪欲な現代人でもこういう状況を願うことはできない。

2014日々の聖句 08月29日(金)
主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。(イザヤ8:17)
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ロマ8:25)

私の黙想:
見えない神が顔を隠す。思わず笑ってしまう。これを預言者イザヤ大真面目で語り、隠れている神に望みをかけるという。イエスは「隠れていることを見ておられる父」(マタイ6:4)という。罪を犯したアダムとエバは「主なる神の顔を避けて、園の木の間にかくれた」(創世記3:8)。その他聖書には「隠れる」記事が多数ある。一体、聖書における「隠れる」ということはどういうことなんだろう。いろいろ考え合わせると「真実」は「隠れて在る」、「隠された真実」、信仰とは「隠れた真実」に望みを置くことらしい。だから真実の「隠れている所」をある発見することは、他に代えられない喜びがある。「(天の国は)畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産を売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)。買った畑は、貧しく、貧相で、何も生えないような土地かもしれない。人々は彼を嘲笑するかもしれない。しかし彼は人びとの嘲笑なんか気にしない。彼は莫大な「宝」がそこに隠されていることを知っているから。教会ってそんな畑なんだ。聖書もそんな本だ。今朝はちょっとピントが外れたようだ。

2014日々の聖句 08月30日(土)
ダビデもゴリアトに言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしは万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」(1サムエル17:45)
わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人の救い主である生ける神に希望を置いているからです。(1テモテ4:10)

私の黙想:
宿敵ペリシテ軍とイスラエル軍との戦い。勝負の結果は明らかであった。勝てる見込みは殆ど無い。敵の勇者、歴戦の勇士に対する未だ少年にすぎない羊飼いのダビデとの一騎打ち。ゴリアトは槍をブンブン振り回してダビデに迫る。今日の聖句はその時の少年ダビデの言葉である。
とは言え、ダビデは素手ではなかった。ダビデの得意とする「石投げ紐」と河原から拾ってきた「滑らかな5個の石」とを手にしてゴリアトに立ち向かった。いわば、ゴリアトの剣や剣に対してダビデは素朴ではあるが、「飛び道具」で戦い、ダビデがゴリアトを倒した。この戦いの結果、ダビデの名は一躍有名になった。少年ダビデの勇敢な物語。
私は少年の頃、この物語を日曜学校で聞き、ワクワクしたものであった。それで、この時の「石投げ紐」、当時の聖書では「投石索(いしなげ)」と書かれていたが、いろいろ調べて試作をしたものである。今朝は少年時代の思い出に耽る。

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