ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

高塔山のあじさいと洞海湾の若松港

2008-06-08 20:32:38 | ときのまにまに
今日は八幡聖オーガスチン教会での礼拝を終えて、信徒の方々と一緒に、「若松あじさい祭り」に出かけました。お祭りに協賛ということで、八幡東のスペースワールド横から、対岸の若松区まで無料のチャーター船が今日と次の日曜日だけ運行されるということで、それを利用させていただきました。北九州市の中でも、若松区は交通の便が悪く、戸畑を通って若戸大橋経由で行くか、あるいは折尾を通って、陸路を行くかしかありません。それで、八幡東の住民と若松区の住民とが協力して、両地区を結ぶ海上交通網を整備しようという、いわば市民運動が起こっています。その運動の一環として、「若松あじさい祭り」に協賛して、無料連絡船を運航し、その便利さを体験してもらおうという趣旨のようです。

       

わずか、10分ほどの船旅ですが、静かな海上を航行する気分は最高です。若松区に着くと、そこから高塔山の頂上まで無料のシャトルバスが運行されていました。まさに、いたれりつくせりのサービスです。山の上は、あじさいの花と人で溢れていました。展望台からの真下には洞海湾、目を東に向けると赤く輝く若戸大橋、東北方面には新日鉄戸畑工場の景色、北の方にははるかに響き灘が見えます。残念ながら今日は曇り空で、かすんではいましたが、雄大な景色は来た甲斐がありました。

       
この若松地区は、石炭産業が盛んな頃には、石炭積み出し港として、日本一の地位を占めていました。筑豊地方で採出された石炭は、底の浅い舟で、遠賀川を下り、堀川と呼ばれる運河を経由して、洞海湾に運ばれ、若松港で大きな舟に積み替えられて、全国各地に送られたとのことです。この石炭を積み替える作業をした労働者を、この地区では「ごんぞう」と呼び、その名残の「ごんぞう小屋」が港に近くに保存されていました。

       

明治24年(1891)年)に若松‐直方間に筑豊興業鉄道が開通し、遠賀川経由の人力による石炭の輸送は鉄道に変わり、若松村は急速に成長し、若松町になりました。昭和15年(1940年)が石炭の輸送量はピークで、その後エネルギーは石炭から石油へと転換し、昭和30年代に入り、炭鉱の閉山が続きました。わたしが学生の頃、つまり昭和35年頃は、筑豊炭田は廃墟化し、その被害をまともに受けた子どもたちが溢れていました。当時、関西学院や同志社大学の神学部の学生たちが中心になって「筑豊の子どもたちを守る会」を結成して、ボランティアとして筑豊地区に泊まり込み、活動していたことを思い出します。
現在は、筑豊の炭鉱がなくなり、若松地区は新しい町造りへと模索をしています。もともと、自然環境は美しく、豊かであるので、これからの発展が十分に期待できる地域です。

       


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