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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/08/06~08/12

2017-08-12 09:56:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/08/06~08/12

2017 日々の聖句 8月6日(日)
聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱きなさい。(詩105:3)

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは(翌日出発する予定で)人々に話をした(が、その話は夜中まで続いた。)(使徒20:7)

私の黙想:
今日の新約聖書の聖句、いろいろ文句はあるが、無視しておく。
今日の聖句(旧約)、なかなか含蓄がある。「聖なる御名を誇り」とするということと「主を求める」ということとは違うことなのか、同じことなのか。同じ信仰者の外向けの姿勢と内向きの姿勢を示していると読む。その二つが一つとなって「心の喜び」が沸き上がってくる。フランシスコ会訳では「聖なる、その名をたたえよう。主を求める者よ、心から喜べ」。祈祷書の訳は面白い。「尊いみ名に栄光あれ、主を捜し求める者よ、心から喜べ」、最も感じが出ている。「誇りとせよ」と命じられたら「ハイ、誇りにしまう」で、まだ誇りにしているわけではない。「その名をたたえよう」では、そう決断しているだけで「たたえている」わけではない。
話は飛ぶが、「謝罪すべきでしょう」では、謝罪しているわけではない。実際に、頭を下げ、あるいは土下座して、何分間かの時間を過ごす。それが謝罪であるし、その謝罪には当然それに見合う行動が期待されている。その意味で「栄光あれ」という言葉は実際に叫んでいるのであり、それが「誇る」という行動である。この「命令あるいは「決意」と「行動」との間には無限の距離がある。

2017 日々の聖句 8月7日(月)
(神は)奥義と秘義を現す。(ダニエル2:22)

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14:26)

私の黙想:
神の語りかけは一様ではない。いろいろな状況において、いろいろな手段を用いて、いろいろな人を通じて、ある時には直接に語りかける。これは証明する必要がないほど自明のことである。今日の聖句は、まずバビロンの王が夢を見る。その夢の意味を知りたくて、王は国中の占い師や、夢解き師や賢者を集めて解釈させる。しかし有効な解答が得られない。そこでかなり乱暴な話であるが、それらの人びとを皆殺しにする。先ず、ここで王が何故それらの解釈に納得しなかったのか。この謎は解かれない。そして最終的に捕囚民の独りであるダニエルに問う。ダニエルは答える自信がない。変なことを答えたら殺される。それでダニエルは同じ捕囚仲間を呼び集め相談し、最終的には必死になって「彼らの神」に祈る。その結果、「幻」、おそらく夢の中で神から答えがあったという。神の答えは記録されていないが、その時、ダニエルが語った言葉がここに記録されている。結構長い文章で20節から23節である。今日の聖句はそのごく一部である。ここでの「奥義と秘儀」が何か、王の見た夢のそのものか、あるいはダニエルが幻の中で聞いた神の言葉か、分からない。神の「奥義と秘儀」とは、つねに不明の要素がある。あって当たり前である。しかし、それをそこで聞いた者には確信がある。
この「奥義と秘儀」、語義的には面白い。口語訳では「神は深妙、秘密の事」と神妙に訳している。フランシスコ会訳では「測り難い、隠されたこと」、新改訳は「深くて測り知れないこと」、文語訳では「神妙秘密の事」、岩波訳では「奥深くに隠されたこと」と訳している。ともかく、語られても分からないことなんだろう。それを理解するためには、神による「知恵」が必要なのであろう。ダニエルは独白の中で「知恵と力は神のもの」とその秘密を告白している。
新約聖書の方に来ると、使徒パウロは「奥義」という言葉をしばしば使った。「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい」(1コリント4:1)とまで言っている。これは口語訳であるが、新共同訳では「神の秘められた計画」と訳している。

2017 日々の聖句 8月8日(火)
わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。(イザヤ65:1)

僕が、「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」(ルカ14:22~23)

私の黙想:
今日の聖句、ここだけ(1~2節)を読むと、非常に寛容な神が強調されている。ところが、3節後半では、にもかかわらずこの「反逆の民」の行動は改まらないし、ついに5節前半では、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな。わたしはお前にとってあまりに清い」とまで言い、神を冒涜する。神の「わたしはここにいる」という言葉に対して、神に対する彼らの「遠ざかれ」という言葉が鋭く対比されている。そしてついに彼らはいってはならない言葉を口にする。「わたしはお前にとってあまりに清い」。この言葉は「反逆の民」の言葉であり、明らかに神の言葉を逆用して皮肉っている。「そうだよ、あんたは私たちにとってあまりに清すぎるんだよ」。
ここまで来て、ついにさすがに寛容な神もとうとう堪忍袋の緒が切れて、この「反逆の民」に対して「これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ絶えることなく火を燃え上がらせる」(5節後半)。神が怒っている。そして神は彼らに対して最終警告を与える。「見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる」(6節)。
あまりにも激しい言葉なので、この読み方で良いのか自信がなくなって、他の訳も読んだが、表現にかなりの違いはあるが、ほぼこうなっている。

2017 日々の聖句 8月9日(水)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。(箴言2:6)

イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。(ルカ4:14~15)

私の黙想:
環境の適応するのは生物に共通の本能である。その本能も「知恵」と言えないことはない。しかし、人間の「知恵」はそれを越えている。環境でもないこと、環境に反すること、あり得ないことを想像したり、考えたりするのが人間である。その意味で、人間の「知恵」とは不思議な作用であるし、しかもそれを蓄えることが出来るのは、もっと凄いことである。恐らく原始時代、人間と動物との境界線がほとんどない時代、人間はそのことに気付いたに違いない。不思議だ。
それで、AI(コンピューターによる頭脳)を考える。結局、AIとは環境への反応ではないのか。AIについては疑問文のままにしておく。人間の「知恵」、ここでは「知識」とも呼ばれ「英知」とも言われているこの人間特有の「機能」に対する驚きを失ったら、人間は人間以下のもになるのではないだろうか

2017 日々の聖句 8月10日(木)
味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩34:9)

イエスの言葉:わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ6:51)

私の黙想:
「味わう」と言うことは徹底的の個人的体験であり、それをいかなる詩人も詩で表現することは出来ない。蜂蜜の甘さ、それは自分の口で味合うしか経験することは出来ない。ここではその味は「主の恵み深さ」であり、それを味わった人が「美味しい」と言ったら「美味しい」に違いないと思うだけで、そのおいしさを自分自身の舌で感じない限り、共有することは出来ない。また、たとえ「共有」したとしても、それが必ずしも同じことを意味しているという保証はない。
宗教、いや信仰にはそういう困難が常に伴う。その最も身近なことが「聖餐式」である。正直に言って、私は「聖餐式」の「味」が分からない。美味しいのか、不味いのか。それを非常にありがたがっている人を見ると、羨ましく思う。この人には信仰において勝てないな、と思う。しかし、聖書に関しては「美味しい」と心から思う。しかも、それは御ご馳走の美味しさではなく、「日常の美味しさ」、具体的には「厭きない味」というか、日本人にとっての「ご飯の味」である。信じられないようなこと、変なこと、矛盾したところがあっても、それが「味」だ。

2017 日々の聖句 8月11日(金)
神はノアにいわれた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、(契約を立てる。)あなたたちと共にいるすべての生き物(またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣)と契約を立てる。(わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、)洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(創世記9:9~11)

神は、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2コリント5:19)

私の黙想:
何はともあれ、人間は「虹」をみたら、その美しさに感動する。世界は何か人間がどうしようもない大きな力によって動かされていることを感じる。これは、おそらく、人類に共通の感動であろう。地にある全ての生き物も感動しているに違いないと思う。科学的に見たら幻に過ぎない、らしいが、そんなことはどうでもいい。そこに「虹」が見えるという事実が、私たちの心を動かす。洪水は虹とは違って現実である。この「虹」の存在によって、ノアの洪水の出来事が真実となる。そういうことはありうるだろうな、と思う。神が怒れば地球はたちまちの内に滅ぼされることはあると思う。虹によって終末がリアルになる。

2017 日々の聖句 8月12日(土)
主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。(サムエル下7:28)

天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。(ルカ21:33)

私の黙想:
今日の聖句はダビデの宮殿が完成し、ダビデ王がそこに住むようになったときの感謝の祈り。ダビデにとって「家」とは豪壮な宮殿ではなく、繁栄する子孫を意味しているようだ。ダビデは実力によって豪壮な家を建てることが出来た。しかし、本当の「家」が建築物ではない。27節に示されている、「あなたのために家を建てる」というヤハウェの言葉にある「家」であり、それはダビデ王朝を意味していた。確かにダビデ王朝は確立したが、既にその段階で亀裂が入っていたことにダビデは気付いていなかった。

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