ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 7/3

2011-07-11 09:10:19 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 7月3日(日)
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせ​てください。(詩90:14)
キリストの言葉:あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供​には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の​父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイ7:1​1)
私の黙想
朝という「特別な時間」の「あなたの慈しみ」とは何だろう。朝に​感じる独特の充足感、これを「あなたの慈しみ」という言葉に限定​してしまうと、何か「あなた」にいいとこ取りをされた感じがする​。この「朝の充足感」は「私のだけもの」である。

今日のローズンゲン 7月4日(月)
わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。(エ​ゼキエル39:7)
預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名​によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。(使徒言行録​10:43)
私の黙想
ここでの1人称単数「わたし」とはヤハウェのことである。「私が、​私の民の中に、私の聖なるな名を知らせる」とはヤハウェの秘密の開​示を意味する。ミディアンの野で燃える柴の中からモーセに呼びか​けたヤハウェが再び現れるという。今日選ばれている言葉に続く言​葉がより重要であろう。「わたしはわが聖なる名を二度と汚させな​い。」
ここに神の「やり直し」が描かれている。民の失敗を引き受けて「​やり直す神」である。

今日のローズンゲン 7月5日(火)
神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身​を寄せます。(詩36:8)
わたしたちは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来まし​た。(ヘブル6:18)
私の黙想
慈しみであれ、憎しみであれ、相手を人格的存在として認識すると​いう構造は面白い。結局それは呼べば答えるという関係であろう。​人間と神との間ではその関係は奇跡以外の何ものでもない。奇跡(​驚くべき業)を通して人間は神を人格的存在として認識する。

今日のローズンゲン 7月6日(水)
主はイスラエルの人々に喜びを与えられた。(エズラ6:22)
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであら​ゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさ​い。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(マタイ5:1​1-12)
私の黙想
今日の聖句を読んで昭和21年のクリスマスを思い出す。この年の​10月に母親と息子たち3人とが満州から引き揚げ、間もなく父親​も復員してきて、日本での「文屋家」の再出発の準備も整い、その​年のクリスマスに最初の食事がなされた。喜びと希望に満ちた食事​であった。
私にとってイスラエルの「出エジプト」と「バビロンの捕囚からの解放」とが、私の引き揚げ経験と重なったところに、私の信仰の原点がある。

今日のローズンゲン 7月7日(木)
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。(イザヤ52:9)
わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇り​としています。今やこのキリストを通して和解させていただいたか​らです。(ロマ5:11)
私の黙想
今日の聖句はエルサレムの廃墟を前にしての希望に満ちた叫び。「​歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ」。廃墟の中に「​回復の希望」を見る。

今日のローズンゲン 7月8日(金)
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてく​ださい。(詩51:14)
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ロマ​7:19)
私の黙想
束縛は外からの力でもあるし内からの力でもある。しかし自由は内​から出てくる。内なる自由は外からの束縛を打ち破る。刀折れ、矢尽​きるとも、内なる自由を奪うことはできない。自由とは罪からの解放​にほかならない。

今日のローズンゲン 7月9日(土)
我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささ​げます。(詩44:9)
わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたち​の主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主に​よって誉れを受けるようになるためです。(2テサロニケ1:12​)
私の黙想
日本人は「私の名」、名誉に拘りがあるが、ユダヤ民族は「神の名​」に拘る。その拘りも尋常ではない。そこにキリスト教での祈りの​最後に「主イエス・キリストの御名によって」という言葉を付加す​る理由があるのであろう。聖公会の信徒の中には、時々この言葉を​「唱え忘れる」人もいる。おそらく人前で祈る習慣が少ないのであろ​う。

最新の画像もっと見る