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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/03/16~03/22

2014-03-23 06:38:58 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/03/16~03/22

2014日々の聖句 03月16日(日)
わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも見いだされる者となった。(イザヤ65:1)
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:18)

私の黙想:
本日の聖句はマタイ7:7~8(ルカ11:9~10)よりも進んでいる。あまりにも進みすぎているので、「現在の倫理」ではなく、「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる」(イザヤ11:6~8)と同程度の「終末論的理想」としてしまっている。まさにユートピア化してしまっている。しかしイザヤのメッセージは未来のことではなく現在のことを語っている。今日の聖句に続く次の言葉がそれを指し示している。「わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った」。
私は「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉はこのイザヤの言葉の「裏返し」で、神は私たちの必要をすべてご存知なのだから、求めないでも与えてくださるのであるが、神は私たちが「求めること」「門を叩くこと」「祈ること」を求めておられるだということを語っていると思う。決して「求めたら、与えられる」とは言えない。それは一種の「商取引」である。しかし親と子との関係はけっして取引ではない。その意味では福音は申命記を超えている。

2014日々の聖句 03月17日(月)
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。(エレミヤ7:3)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。(ルカ6:36~37)

私の黙想:
本日の聖句は預言者エレミアが行なった神殿での説教の核心部分で、いわゆる申命記的神学が明瞭に打ち出されている。時代的背景はさておき、ここでは神殿を背景にして宗教と倫理、とくに社会倫理が問われている(4~6節)。「神殿、神殿、神殿」といくら口で唱えても、宗教の本質が見失われると、(社会的)倫理が弱まり、社会的弱者が無視され、虐げられるに至り、神殿はh社会的強者の「強盗の巣」(11節)となる。この説教において注目すべきことは、(社会的)倫理が崩壊する時、宗教は形骸化し、偶像宗教化するという点である。9節の「バアルに香を炊き、知ることのなかった異教の神に従い」とはその点を突いている。宗教は倫理の土台であり、倫理は宗教を活かす力である。

2014日々の聖句 03月18日(火)
主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。(詩5:2~3)
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)

私の黙想:
「つぶやき」と訳されている単語は文語訳では「わが思い」、口語訳では「わたしの嘆き」、新改訳では「わたしのうめき」と訳されている。それに続く「聞き分けてください」という言葉から推測すると、言葉にならない言葉、意味不明の発声なのであろう。詩人は人間関係においてかなり深刻な悩みを抱えている。どう考えても「わたしは正しい」という思いがある。悪いのは「あいつ」だと思う。しかし本当にそうだと言い切れるのか。詩人は考えている。そして神に向かって「言葉を整えている」。4節の「訴え出て」という言葉をフランシスコ会訳では「言葉を整えて」と訳している。口語訳では「いけにえを備えて」で、ちょっと違うが、裁判の前に準備万端整えて訴え出る様子が伺える。間違いない、悪いのは「あいつ」で、私には悪いことはないと確信する。11節には「神よ、彼らを罪に定めそのたくらみのゆえに打ち倒してください」という非常に激しい言葉がある。信仰者がそんなことを断定的に言ってもいいのだろうか。北森嘉蔵先生はこの詩を解説して、彼特有の「出る幕論」を語る。キリスト者の人生においても詩篇5編が「出る幕」があるという。「わたしたちが誰かを相手にして、試練に会った場合に、詩篇の第5編で乗りきれる瞬間がある」(北森嘉蔵『詩篇講話上』50頁)。

2014日々の聖句 03月19日(水)
わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となる。(エゼキエル37:23)
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。(テトス2:14)

私の黙想:
今日の聖句を読みながら、ルカ福音書の放蕩息子のたとえを思い起こす。父に反抗して家を出て、放蕩三昧な生活をして、落ちぶれて、食うに食わずのどん底生活まで落ちぶれて、身も心もボロボロになって帰宅した息子を、遠くから発見した父は、「憐れに思い、、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。これが父親であろう。ボロボロのままの息子を抱き、接吻する。相手が息子でなければできたことではない。それから後に、父親は僕たちに命じる。「一番良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。これが親が息子に対する順序であろう。その意味では、今日の聖句は順序が違う。あまりにも形式的すぎる。ヨソヨソしすぎる。この違いが、旧約聖書と新約聖書の神観の違いだろうか。

2014日々の聖句 03月20日(木)
わたしたちの救いの神よ、あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。(詩65:6)
イエスの言葉:わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:14)

私の黙想:
今日の聖句は何か違和感がある。すっきりしない。それで手元のいろいろの翻訳と比べると、それぞれ少しずつ異なっている。問題は「わたしたちへのふさわしい答え」という訳であろう。最も納得の行く翻訳は文語訳の「我らが救いの神よ、地と海とのもろもろの極なる、きわめて遠きもののたのみとする汝は、公義によりて畏るべきことをもて我らに答え給わん」であろうが、これも少々ゴタゴタしている。その点で、祈祷書の翻訳はスッキリしている。「あなたは正義によって不思議を行い、わたしたちにこたえられる。わたしたちの救いの神よ、地の果ての望み、遠い島々の希望よ」。一言、言葉の意味を確定するだけで多くの時間を取らせる翻訳は、特に詩文の場合、どうかと思う。私たちに対する神の行為は常に私たちに対する「答え、応答」である。しかも、それは常に私たちにとって「不思議」である。そこには神と私たちとの間に問う者と応答する者との関係が成り立っている。そして常に私たちは神からの答えに驚かされる。神の答えはわたしたちが想像もしなかったような「救い」をもたらす。その驚きは私たちだけではなく、地の果てに至る全ての存在の驚きでもあり、希望でもある。10節から14節までの部分で詩人はその神による「不思議」の内容を歌い上げている。なんという豊かさ、なんという穏やかさ、なんという平和。考えてみると、これらの事実は不思議である。

2014日々の聖句 03月21日(金)
主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。(ゼカリア14:9)
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(1コリント8:6)

私の黙想:
唯一神信仰による終末幻想。論じるべきことがいろいろある。ユダヤ人の「幻想」であるから、他国人がいろいろ批判してもそこから何も出てこない。成る程、彼らはの夢はこういうことなのか、でよい。ただ一点、私が興味を持つのはこの章の最後の一文。「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」。このことがよほど彼らには耐えられない苦痛であったのであろう。他国支配は「やむを得ない」で何とか我慢できる。しかし神殿内の「商人」とは同国人である。同国人が同国人を犠牲にして、不当な利益を得て、ぬくぬくとしている。これは我慢ならない。同じようなことが、私たちの民族にもある。イエスでも神殿で大暴れするはずである。

2014日々の聖句 03月22日(土)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレト3:1)
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」(ルカ18:31)

私の黙想:
時間は不思議である。「時間とは不思議な存在である」と言えない。時間は存在ではない。「時間は全ての存在を支配する」とも言えない。時間は力ではない。しかし存在するすべてのモノ、コトには時がある。今、存在していなくても、時が来れば存在するし、今、存在しているものも、時が来れば無となる。時の経過により全てのモノ、コトは変化する。しかし時が変化させるわけではない。時間とは単なる経過である。人間は時を計ることができるが時を創造することはできない。しかし私たちは時を「神」とは思わない。むしろ神に属するものかもしれない。全てのモノ、コトの時を定めるのは「神」である。

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