ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2/6

2011-02-14 13:33:33 | ローズンゲン
2月6日(日)
なぜ、わたしと争い、わたしに背き続けるのか、と主は言われる。(エレミヤ2:29)
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。(ロマ11:32)
私の黙想
イスラエルは「神の民」と呼ばれるが、同時に「神に背き続ける民」でもある。パウロに言わせると、神に背くのも神の手の内だとのこと。神が人間を「憐れむために」人間に背かせる。何か変じゃない。そういう「ツンとスマした」発想はいやだな。

2月7日(月)
神はわたしに力を帯びさせてくださる。(詩18:33)
パウロの言葉:わたしは、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。(コロサイ1:29)
私の黙想
人間が活動する(働く)原動力は、肉体の体力ではなく、神からくる「霊の力」による。それはいわゆる「精神力」ではなく「魂の力」、日本語では「根性」というが、この「根(こん)」は「魂(こん)」であり、わたし流には「魂生」である。

2月8日(火)
だれも気を落としてはなりません。(サムエル上17:32)
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ロマ5:5)
私の黙想
「気を落とす」とは期待していたことが実現しそうもないときの心境。ダビデは言う。「私を見て気を落とすな。私ではなく神を見よ」。ダビデは大方の予想を裏切ってゴリアテを倒した。

2月9日(水)
わたしはお前(エルサレム)の中に、苦しめられ卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。(ゼファニア3:12)
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:32)
私の黙想
「苦しめられ卑しめられる」ことが運命づけられた民族という自覚。この裏返しが「選民思想」。ユダヤ人の選民思想の現実面は「悲劇の民」という思想。イエスの十字架理解につながる。

2月10日(木)
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ9:5)
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2:9)
私の黙想
将来生まれるであろう「王」を「力ある神」と唱える。人間である「王」を「神」としてほめ讃える。イスラエル人の唯一神信仰における矛盾。その矛盾点につけ込むキリスト教神学。

2月11日(金)
神は、言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。(民数記23:19)
イエスはペトロに、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:31)
私の黙想
「有言実行」、神は有言実行である。いや、むしろ神が語られたことが実現する。人間には言っても、願っても、できないことが多すぎる。

2月12日(土)
わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。(創世記17:1)
あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:14,16)
私の黙想
当然のことであるが、この「全き者」とは「神のように」ではない。人間としての完全、強さも弱さも、賢さも愚かさも、善い面も悪い面も全部ひっくるめて人間であれ、と解する。神は神として完全であり、人間は人間として完全である。

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