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ぶんやさんの記録

ヨブ記第、15章1-35節

1985-07-07 20:25:48 | 小論
ヨブ記第、15章1-35節
文 屋 善 明
一 はじめに
旧約聖書を説教のテキストにするためには、色々と配慮しなければならないことがある。もちろん、それを説教の中の一つのエピソードとして用い、あるいは民話を用いるように一つの例話として用いるのであるならば、話は別であるが、もし、旧約聖書の一部を説教のテキストそのものとしようとするならば、そのテキストの背景をなす歴史、その文書の構成、旧約聖書の中での文学的、思想的位置づけ等、要するに「誰が、誰に対して、どういう状況の中で語った言葉である」のかということを十分に把握した上で、説教者は彼がそれをキリスト教会の中で福音として語る「視点そのもの」を明確に意識していなくてはならない。
キリスト教界の中には、なんとはなしに、ユダヤ教はキリスト教によって完成された、未完成な宗教であるとか、キリストにおける啓示の実現に至るいわば「予備的な歴史」に過ぎない、というような思い込みがある。しかし、それは事実に反する。ユダヤ教それ自体はキリスト教よりもはるかに長い歴史を持つし(もちろんキリスト教が成立する以前のユダヤ教の歴史だけをキリスト教の歴史と比べると、現在ではキリスト教の方が長くはなったが)、完成された宗教組織である。それどころが、例えばエリ・ヴイーゼルの『伝説を生きるユダヤ人』 (松村 剛訳、ヨルダン社)を読んでも分かるように、ユダヤ人の神信仰には、生半可なキリスト教信仰では歯が立たないすごみがある。当然、われわれキリスト教徒が旧約聖書と称する諸文書はユダヤ人にとっては「聖書」そのものなのであり、そこには彼らの解釈があり、彼らのメッセージがある。
従って、不用意に、旧約聖書の一部をキリスト教会での説教のテキストそのものとして用いると、キリストに忠実であればあるほど、キリスト教の説教であると思い込みながら、実はユダヤ教の、
しかも中途半端なユダヤ教の説教になってしまいかねない。
こういう当然過ぎることをわざわざここで述べなければならないのは、旧約聖書の中でも特にヨブ記の場合には、この点が最も重要な論点の一つでもあるし(筆者に課せられている第15章の問題でもある)、そのことが明白に自覚されていなければならないと思われるからである。

ヨブ記を教会的に読み・語る視点
このことについては、誰にも異論はないと思うが、ヨブ記をケリュグマとして読み・語る際に、ヨブ記の内部では第42章の2節から6節までの「開眼」経験の言葉が「支点」になる。しかし、この言葉自体はあくまでもユダヤ教の内部での経験である。われわれには、ヨブのこの「開眼」経験とわれわれ自身の「主イエス・キリスト経験」とを重ね合わせてヨブ記を読む「視点」を形成する作業が必要である。言い替えるならば、「耳で聞いていたこと」を「目で見る」という転換、この改心のドラマ、「開眼」経験が、私に起こったこととして、しかも「復活のイエス・キリストとの出会い」において経験されたこととして、つまり福音として語らねばならない。この「視点」(同時に「支点」)がぐらぐらすると、ヨブ記のメッセージが教会のケリユグマにならない。

問題
本シリーズの中でもう何回も触れられていることであろうが、ここに人生に対して深刻な「問いを持つ」一人の人物がいる。彼の問いの内容をある人は「神義論」と言い、「苦難の意味」と言い、また別の人は、別の言い方をする。ともかく彼の問いは深い。彼の問いを中心にして、ドラマチックに詩劇は展開する。彼の問いに対して正統派神学の立場から答えようとする者、問いを問うということ自体を批判する者、感情に訴えて問いを問うエネルギーをそごうとする者、要するに、われわれが普段こういう場合にするであろう全てのことが、ここで展開するのである。しかし、ここで共通する一つのことは、誰も彼の問いそのものを理解しょうとする者がいないということである。

二 解読
さて、わたしに与えられているテキストは、第15章である。ここから、三人の友人たちによる議論の第二ラウンドが始まり、第一ラウンドと同様に最年長者と見なされるエリパズが口火をきる。第一ラウンドと異なり、さすがのエリパズの語調も初めの同情の気持ちは失せ、かなり激しい。当然のことであろう。それだけに、論旨はハッキリしている。要するに、彼の立場は正統派神学の立場である。
以下、この部分を説教に向けて思索するにあたり、ありきたりの語義解釈、分類等についてはすでに邦文でも沢山準備されており、今更筆者がつまらないものを付け加える必要もないので省略する。

第1段 2-6節
エリパズがヨブに対する同情心を捨てたことは正しい。ヨブの苦難と呼ばれているものは、他人から同情されて慰められるようなレベルのものではない。ヨブの苦しみはヨブを突如襲った不幸にあるのではなく、不幸な境遇に身を置くことによって見えてきたもの、否むしろこの段階では、それまではっきりと見えていたと思っていた現実の姿が怪しくなってきた、つまり「見えなくなった」こと、ここに「答えを持たない問い」を持ったということにある。エリパズをはじめ、三人の友人たちの同情・慰めの言葉、あるいは「解答」は今の今までヨブ自身が確信し、他の人々に語り、慰めてきた言葉でもある。ところが、今ヨブはそれまでの模範解答が解答にならない経験をしてしまったのである。それまでの「敬虔なヨブ」が確信し、それに基づいて生き、子どもたちに教え、隣人に諭してきた全てが廃墟のように崩れてしまったのである。
ここでのエリパズのレトリックは面白い。賢い人は馬鹿げたことを言わないし、無駄なことをしない。これを裏返すと、馬鹿なことを語り、無駄なことをする人間はもはや賢い人ではない。同じ様に、「神を恐れることを捨て、神の前に祈らないあなたは」、もはやヨブではない。第4章6節で神に対する敬虔ということがヨブのよりどころであると、エリパズはいう。つまり「敬虔ではないヨブ」はもはやヨブではない。あなた自身の(問いの)言葉と行為が、敬虔なるヨブ」というあなたの正しさを否定している。今までの、「敬虔なるヨブはどこに行ってしまったのか」。これが、エリパズの第2回演説のオープニングレトリックである。
生活実態としての敬虔さには土台が必要である。その土台は、神と人間との関係を制度化する安定した宗教あるいは神学である。人間はこの神学に依存して敬虔に生きることが出来るし、また神への敬虔性が隣人に対する倫理ともなる。ところが、今までヨブの生活を支え、ヨブの世界との関係を秩序づけていた神学が揺らぎ、崩れている。ヨブにとって、神ご自身がいなくなったのではない。神との関係を秩序づける神学が頼りにならなくなったのである。神に対する「叫び」がなくなったのではない。「敬度なる祈り」が祈れなくなったのである。「神の言葉」として「聞かされる」伝承の言葉、洗練された神学がぼろぼろに見えてきたのである。ヨブは直接に神の言葉を聞きたいと願う。しかし、それは不敬であり、高慢である。しかし、今のヨブはそれでもいいと思う。

第2段 7-16節
問いを持つこと自体は正しい。人間の知恵は問いを発することから始まる。しかし、あなたの問いは、もう既に答えられているではないか。「人生、労苦して生きるに価値ありや」「悪人が栄え、善人が苦しむ、この現実を我らどう理解すべきや」。これらのいわば古典的な問いに対する解答は、あなたも私も既に持っているではないか、これがエリパズのヨブ批判の論点である。
この部分のエリパズの言葉は第13章1-3節のヨブの発言に対応している。「見よ、私の目は、これをことごとく見た。私の耳で聞いて悟った。あなたがたの知っていることは、私も知っている。
私はあなたがたに劣らない。しかし、私は全能者に物を言おう、私は神と論ずることを望む」。このヨブの気持ちがエリパズには理解できない。エリパズにはヨブの問いの理由が分からない。模範解答が発表されてしまったら、もはや問題は問題にならない。これがエリバズの立場である。その答えが答えでない、というならそれはとんでもない高慢か、狂気としか言いようがない。エリパズは、ヨブに「なぜ」と問う。しかし、ヨブの問題を理解しょうとしない。

第3段17-35節
ここに、エリパズの神学が開陳される。エリパズが確信し、そこに立って生きている神学は、それ自体としては正しい。しかも、それはエリパズだけの神学ではない。今までの「敬虔なるヨブ」が生きる土台とし、世界との関わりを秩序づけてきた神学でもある。まさにそれこそ、ヨブが第42章で「聞いてきた」と述べる神学である。
エリパズは「私は自分の見たことを述べよう」と言う。彼は本当に「見ていること」を語っているに違いない。エリパズは、先祖代代、純粋に受け継がれ、また正統派として公認されている信仰の視点に立って、つまり、精密に構築された神学体系を視座として、「見ていること」を語っている。
「悪しき人は一生の間、もだえ苦しむ」「彼は食物はどこにあるのかと言いつつさまよい」、また「彼は富める者とならず、その富は長く続かない」。これが彼の見た社会である。この様な現実理解ならば、ヨブ記に限らず「敬虔な」詩篇を読めば、幾らでも出てくるし、新約聖書にだって、拾い出すことも難しくない。要するに、因果応報の思想というのは、組織化された宗教思想であり、それによって成り立つ倫理である。この思想の恐ろしさは、この視点に立ち、この生き方をすると全てがその様に見えてくるし、世界が非常に安定して据えられるということである。
制度化された宗教でも、体系化された神学でも、その出発点においては「(神を)見た」という経験があったに違いない。その経験は世代を越えて、人間の言葉を媒介にして伝達される。やがて荒々しい最初の経験は秩序付けられ、体系化されて神学となる。また最初の、ほとんど偶然とも思える経験は美しく飾られた祭儀を生む。ということは、実は世界が「見えていて見えていない」ということなのである。そこで「見えている神」はまさに機械仕掛けのように正確に、秩序立っており、世界もまた美しい。なぜなら、その神は人間の神学によって「飼い慣らされた神」であり、世界もまたその中に「汚れたもの」「無秩序なもの」の場がないからである。それはまさに、コスモスとしての世界である。
しかし、ヨブは自ら「塵を被り」、貧、病、苦のなかに身を置いた時、全く別な世界が見えてきたのである。それはまさに「秩序なき」世界、カオスである。ヨブがここで呼び求めている神は、そしてヨブの前に姿を現された神は、カオスの神である。「あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはない」(42:2)。まさに横暴なる神である。「神義論」を超える神、人間の全ての神観念を越える神、神に対する信仰も疑いも越える神、この神が世界を支配しておられる。この神の前にヨブの問いは、沈黙する。

結び
ヨブの信仰、ヨブの経験はキリスト者に対して常に問いであり、問題提起である。いや、キリスト者だけではない。全ての宗教、神信仰にとっての問いである。なぜなら、人間は神さえ「飼い慣らそう」とするからである。

三 説教のための黙想

説教A むなしき知識  2-3節
「知者は空しき知識をもって答えるであろうか。東風をもってその腹を満たすであろうか。役に立たない談話をもって論じるであろうか。無益な言葉をもって争うであろうか。」
ここでは、知恵ある人についての一般的な常識を述べることによって、賢い人がそんなに馬鹿なことをするはずがない。しかし、ヨブよ、あなたがいましていることはそんな馬鹿なことなのですよ、と皮肉る。このエリパズの態度は、主イエスに対して「そんなに馬鹿なことは止めなさい」と忠告した主イエスの家族(マルコ3:20-21)、と弟子ペテロ(マタイ16:21-24)に似ている。
使徒聖パウロは福音の愚かさについて強調している(第二コリント1:18-25)。単なる非常識と深い経験に基づく「狂気」とを混同する愚かさに注意。

説教B 神の慰めとやさしい言葉 11節
「神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、あなたにとって、あまりに小さいというのか。」慰めの言葉を語り、心の傷を癒すということは、牧師の重要な仕事である。使徒パウロも患難の中にあるコリントの教会の信徒たちに慰めの言葉を「神の慰め」として語っている(第二コリント1)3-8,7:6)。
しかし、しばしば牧師の慰めの言葉は悩みの中にある人からは受け入れられない。なぜだろうか。エリパズは自分の「やさしい言葉」を「神の慰め」であると確信している(4:12-21)。しかし、ヨブはそれを「くちびるの慰め」(16:2,5)であるとして受け入れようとしない。問題は何か。
トルストイはアンナ・カレーニナの冒頭で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸なものである」という。苦悩というものは個別的なものであり、苦悩を普遍化することは、相手の個別的な状況を無視することであり、究極的には相手を殺すことになる。「普遍的な真理」は、本当の慰めにならない。
「泣く者と共に泣き、喜ぶ老と共に喜べ」(ロマ12:15)。

説教C 人はみな罪人 14節
「人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生まれた者は、どうして正しくありえよう。」エリパズは、この事を「神の啓示」に基づく真理であるという。ヨブも、またビルダデもそれが真理であるということを認めている(9:2,14:1-425:4)。「人はみな罪人」ということが聖書的な立場であることは明白である。ソロモン王は、エルサレムの神殿が落成し、「神の契約の箱」が神殿にかつぎ込まれる時、イスラエルの全会衆を前にして、長い祈りを捧げた。その折りの中でも、「人は罪を犯さないものはないのです」と述べている(列王紀上8:46、歴代志下6:35)。詩篇にも、人はみな罪人という言葉と思想は多くみられる。問題は、人はどういう時にこの言葉を言い、この言葉を持ち出すか、ということである(参照、ラ・フォンテーヌ 「寓話(下)」『ペストにかかった動物たち』)。
しばしば、この真理は自己の罪を弁解したり、他人の罪を糾弾したり、自分を罪人の立場から排除するための道具として用いられる。特に、キリスト者が他の人々に対する態度に注意。

説教D 神の人間不信 15節
「見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない。もろもろの天も彼の目には清くない。」
この言葉は、ここでは人間はみな罪人ということの別の側面として触れられている。つまり、人間の相対的な正しさ、清さというものは神に対しては問額にはならない、という神の絶対性についての宗教的真理を述べている。
ここで用いられている「信を置く」という言葉は、「アブラハムは神を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)で用いられているのと同じ、「aman」である(アーメンという言葉とおなじ言葉)。この「信じる」という言葉は、「堅く立つ、頼みとする」という意味が強い。アブラハムはヤハウェを自己の存在の根拠とし、彼の主とした。ヤハウェはこれを受け、彼をご自身のものとした。しかし、ヤハウェはアブラハムをご自身の存在の根拠とはしない。
ここで思い出すことは、主イエスが人々をお信じにならなかった、という出来事である(ヨハネ2:24)。人々はイエスの御名を信じたが、イエス自身は彼らを信じない。たやすく信じないということによって、信じるということの重さが出る。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか」とは、イザヤの言葉(イザヤ2:22)。

説教E 惨めな人生  23節
「彼は食物はどこにあるかといいつつさまよい」神を信じ、神と共にいる人は、「食物を求めてさまようことがない」(詩篇37:25)、とか「空の鳥=野の花」論によって、神の(特別な)恵みを普遍的真理としてはならない。それを「真理」とするとき、それは他人を裁く道具となる。そのもっとも良い例がヨブ物語である。神の特別な恵みを神学的真理として体系化し、論理化することは人間の高慢。神の自由を人間の論理に閉じ込めることになる。神はエサウを憎み、ヤコブを愛する神である(ロマ9:13)。

説教F 「腹」についての省察
「東風をもってその腹を満たす」(1節)
「その腹は偽りをつくる」(35節)
第15章は「腹」(beten)で始まり、「腹」で終わる。ヘブル人が本当に「腹」で考えるのだとしたら(旧約聖書における「腹」の用法を調べると、これは本当らしい)、ここの「東風」とは有害な思想を意味するレトリックであろう。
最後の節は、「彼らは害悪をはらみ、不義を生み、その腹は偽りをつくる」という格言じみた言い回し。従って、語義的に細かく分析して、その意味を求めても混乱するばかりである。むしろ、全体的にイメージとして把握する方が面白い。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」という使徒パウロの言葉と対比すると、「(つまらない人間が、)苦労をはらむと、胎内で謀略が育ち、生まれてくるのは害悪である」とでも訳すべきか。こういう言葉を逆境にあるヨブに投げかける「温厚な神学者」(=エリパズ)とは」一体何者なのか。
(日本聖公会聖アグネス教会牧師、ウィリアムス神学館教師)


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