ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

マルクスの資本論と英国国教会

2008-10-10 13:52:53 | ときのまにまに
株価の暴落という経済危機について、英国国教会の二人の重鎮(大主教)が発言しているということを知らせてくれた友人がおれば、また、英国国教会も大きな被害を受けているらしいということを知らせてくれた友人もいました。そのようなメール交換という場に、また別の友人から、マルクスが資本論の序文で、英国国教会について触れているという情報が投げ込まれました。いわく、「イギリス国教会は37箇条の信仰箇条のうち2箇条を削除するか、2エーカーの土地を供出するか迫られたら疑いなく前者を選択するだろう」と書いてましたよね。
そこで、早速Webでマルクスの資本論の序文を検索し、「第1版原著者序文」というのを発見しました。その終わりの部分で、次のように述べられていました。
「科学の自由攻究は、経済学の領域に於いても他の総べての領域に於けると同一の敵に逢着するというのみではない。経済学の取扱う材料の特殊の性質は、人心の最も激越野卑にして悪意ある情念を、私的利害の仇神を、自由攻究の敵として戦場へ呼び立てることになるのである。例えばイギリスの国教会は、その収入の39分の1を失うよりも、寧ろ39の信仰ヶ条のうち38ヶ条に対して向けられる攻撃を甘受するという有様であって、無神論それ自身は、これを伝来的の所有関係に対する批判に比すれば、今日では些々たる軽罪となっているに過ぎぬのである。
(中略)
科学的批判の精神に基く一切の評価は、私の歓迎する所である。けれども、私が未だ曾て譲歩したことのない、謂わゆる世論なるものの偏見に対しては、私は依然として大詩人ダンテの格言を守る。
汝の道を進め。而して人々を彼等の言うに任せよ!
1867年7月25日  ロンドンに於いて  カール・マルクス
以上引用
問題の部分は、次の文章であろう。
<例えばイギリスの国教会は、その収入の39分の1を失うよりも、寧ろ39の信仰ヶ条のうち38ヶ条に対して向けられる攻撃を甘受するという有様であって、無神論それ自身は、これを伝来的の所有関係に対する批判に比すれば、今日では些々たる軽罪となっているに過ぎぬのである。>
いかにも「教条主義的マルキシズム的翻訳」で、一読しただけでは理解が難しい文章です。しかも、「ちょっとした誤解」もあるようなので、少し訂正と解説をしておきます。
その前に、マルクスがこの序文で語ろうしていることの文脈から、必ずしも英国国教会(聖公会)のことを取り上げる必然性があるとは思えませんが、英国の図書館で資本論を書きながら目の前にそびえ立つ大聖堂を見ながら、マルクスはあえて取り上げたのだろうと、その心情を理解します。それほど、英国国教会の収入が莫大であったということなのでしょう。
ここで触れられている「39の信仰ヶ条」というのは1563年に制定されたいわゆる「39箇条」のことで、英国国教会がローマ・カトリック教会から分離独立する際に英国国教会の教義的立場を鮮明にするために掲げられた39の信仰項目です。この文書にはそれらしい名称がなく、ただ単に「39箇条」と呼び習わされているので、この種の誤解が生じたのだと思います。この「39箇条」はニケヤ信経、や使徒信経とは違って「信条」ではなく、全信徒が「告白」しなければならないものではありません。ただし、英国国教会の属する全聖職はこれに同意することが求められるそうです。
日本聖公会も1887年の第1回総会(組織成立)の際に、この「39箇条」を祈祷書の中に入れるべきかどうかについて、かなり激しく議論されたとのことですが、最終的には「特定の時代の、特定の教会が、特定の問題に対処するために作成した文書である」という判断が優勢を占めたとのことです。しかし、現在でも聖公会の教義的立場を示すほとんど唯一の(歴史的)文書であることには違いはありません。
さて、マルクスがこの39の信仰箇条のうちのどの箇条を念頭に置いて触れているのかはわかりませんが、ここでマルクスが言おうとしている点は、以下の通りでしょう。
いかなる領域においても、自由な「科学的研究」を目指すと必ずそれを妨げる「敵」があらわれる。とくに、それが経済学の領域において、その対象の特殊性により人間の醜悪な欲望が刺激され、悪鬼のような敵を呼び起こすことになる。たとえば、英国国教会(聖公会)などは、「39箇条」のうちの38の信仰箇条を遡上しあげて、議論されても平気でいるが、収入の39分の1を取り上げられたら大騒ぎになるだろう。無神論という議論さえも伝承された資産問題に対する疑問よりも軽い罪である。
この問題についての「解説」は読者に任せる。

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