ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 09/15~09/21

2013-09-22 06:26:01 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 09/15~09/21

日々の聖句2013 09月15日(日)

わたしの民がわたしに聞き従っていたなら。(詩81:14)
自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。(使徒3:19-20)

私の黙想:
「~いたなら」「(わたしは~~)欲する」(口語訳)「さえすれば」(フランシスコ会訳)、「ならば」(岩波訳)、「~いたのだったら」(新改訳)、いろいろ翻訳に苦労をしているが、要するの過去の歴史を振り返って、そうではなかったことを表現している。事実はそうではなかったが、「もしそうであったら」全然異なる歴史を歩んだであろうと言う。つまり、この言葉に続く事態はイスラエルの「もう一つの歴史」を述べている。「わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」。これはもう過去の歴史の叙述ではない。今まさに彼らが直面している現実でもある。今、ここでこうすれば、私たちの将来はこうなる。もしここで、私たちこうしなかったら、こういう結果になる。
もし今、日本が軍事力を強化したらどうなる。あるいは軍事力を「自衛」に徹底して他国を攻撃する能力を捨てたら、どういう結果になるだろうか。今、私たちは厳しい選択の前に立たされている。

日々の聖句2013 09月16日(月)
わたしに聞け、心のかたくなな者よ、恵みの業から遠く離れている者よ。わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。(イザヤ46:12-13)
神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。(ルカ18:7)
私の黙想:
神の最終的救済の間近さを語る緊迫した雰囲気が漂う。それは世紀末に特有の緊迫した時代感覚に似ている。それは日本的な「末世思想」とは少し異なる。「末世」という概念には「世も末」という悲壮感が伴う。そこからの救済という思想にはカルト性が伴う。しかし聖書における終末意識には常に「新しい時代(世界)」の到来という希望が伴う。この感覚の差は大きい。キリスト教においても一部行き過ぎた終末意識(再臨信仰)によるカルト的傾向がなかった訳ではないが、常にカルト性を制御する日常性という歯止めがかかる。この歯止めこそ、イエスに遡源する全的肯定のメッセージであろう。

日々の聖句2013 09月17日(火)

その後、わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。(ゼファニヤ3:9)
このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(ヘブル12:28)
私の黙想:
先週の木曜日の聖句は、今日の聖句のすぐ後に続く箇所であった。そこではイスラエルに対する裁きと「残りの者」についての預言であった。今日の聖句は「諸国の民」についての預言。諸国の民が「皆」、一つになって主を礼拝する様になると言う。これがイスラエルの残りの者による救済に先行しているという点が興味深い。9節に先行する8節では「諸国の民」への厳しい審判が告げられており、ここでも一種の選別がなされている。従って9節の「諸国の民」における「皆」とは選別後の「皆」である。
米田豊先生の注解によると「ゼファニヤとは『神に隠されし者』という意味で2章3節の悔改むる者は、忿怒の日に『匿さるる者』の言に通ず」と解されている。ちなみにこの箇所を口語訳では次の様に訳されている。「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう」。ゼファニヤ書の救済思想は、先ず裁かれる者たちが排除された後の「義人」の救済であるようである。


日々の聖句2013 09月18日(水)

主よ、朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。(イザヤ33:2)
わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(1テサロニケ5:8)
私の黙想:
「朝ごとに」と「苦難のとき」、日常性と非常時とを貫く信仰。非常時に備えての日常性、非常時の克服によって支えられる日常性。1節との関連で読むと、戦争状態を前提にしているように見える。その場合、この「腕」とは武具を示し、普段の防備がいざという時に救いとなるということを意味する言葉であろう。今日の新約聖書のテキストはそれを受けている。私たちの非常時への備え(軍備)は神である。武力に頼るものは武力によって滅ぼされる。

日々の聖句2013 09月19日(木)

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞いてくださる。(詩116:1)
キリストの言葉:あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)
私の黙想:
1節の「わたしは主を愛する」という句と10節の「わたしは信じる」という言葉がついになっている。そしてその句がそれ以下の部分の総括となっている。「わたしは主を愛する」とボーンと言っておいて2節から9節でその理由、内容を述べる、非常に力強い詩形となっている。さらに読み込むと、14節と18節とが同じ言葉の繰り返しとなっており、これが1節の「わたしは主を愛する」という言葉の具体化、実践化を示す行為となっている。
この詩は緻密に整えられた賛美の言葉で、読んでいる(あるいは詠んでいる)者の気持ちをスッキリさせる清涼飲料のようだ。

日々の聖句2013 09月20日(金)

神の言葉:露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲く。(ホセア14:6)
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)
私の黙想:
この訳語では神とイスラエルとの間はやはり上下関係である。口語訳、フランシスコ会訳では「わたしはイスラエルに対して露のようになる」。ここは大恋愛小説の大団円の光景である。そこに上から下を見下げるように「私は貴女を赦す」なんてやられたら、彼女は再び彼の許から逃げ出すであろう。ここで神は露のようになって静かに、いたわるように、彼女をそっと抱きしめ、ささやく言葉である。その時、彼女は彼の真心に触れ、改心し、新妻のように頬を赤らめて、永遠の愛を誓う。ここはそういう場面である。露は上から注ぐのではなく、すべてをそっと包むのである。ホセアは「包み、赦す愛」を語る。今朝は朝っぱらから少々刺激的すぎましたかね。

日々の聖句2013 09月21日(土)

あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。(詩139:17)
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(1コリント13:12)
私の黙想:
まぁ、どう訳してもいいが、「御計らい(おんはからい)」はいかにも外国人の日本語のようだ。とって付けたような敬語は思わず笑ってしまう。文語訳では「汝のもろもろの思念(みおもい)」、フランシスコ会訳では「あなたの計らい」、直訳くさい新改訳でも「あなたの御思い(みおもい)」である。やはり最も美しい日本語は「神よ、なんじのもろもろの思念(みおもい)は我に寶(とうと)きこといかばかりぞや。そのみおもいの総計(すべくくり)はいかに多きかな」。このように文意は明快で分かりやす文章は、美しい文体に翻訳しなくてはならないだろう。難しい当て漢字が用いられているが、音読すると、すっと入って来て、忘れられなくなる。

最新の画像もっと見る