ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/2/25~3/3

2018-03-03 10:40:33 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/2/25~3/3

2018 日々の聖句 2月25日(日)
正しい裁きは御座の基、慈しみとまことは御前に進みます。(詩89:15)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)

私の黙想:
今日の聖句、それだけ取り上げても、良いこと以上ではない。この詩自体の出来上がりはかなり複雑で、執筆年代ということになるとかなり時代的にズレがある。6節から19節は捕囚前、とくに王制の確立期の作と考えられている(旧約聖書略解)。私はその中でも特に、12節から19節までは一つのまとまった詩、というよりヤハウェ賛歌であると思う。この賛歌の背景については16節の「喜びの叫び」という言葉に秘められている。この言葉を口語訳では、わざわざ「祭の日の喜びの声」と訳しており、この「祭の日」という言葉は喜びの内容を明らかにするために補ったと述べている。文語訳では「喜びの音」と訳している。米田豊は「よろこびの音」を、民を礼拝に招集するラッパの音」だと註解している。何か賑やかな祭の雰囲気を感じさせる。
そういう視点から、今日の聖句を読み直すと、「義と公平はなんぢの寳座の基なり」の「寳座」とは、祭のパレードの「山車」だと思う。街の中の賑やかな大通りを山車(だんじり)を担ぎ、行進する、その山車の土台、担い手は「義と公正」という名の男衆、山車の天辺には「憐れみと真実」という文字が輝いている。そういう情景を思い浮かべる。
真に、「よろこびの音を知る民は幸いなり。主よ、彼らは御顔の中を歩めり」。
今日は大斎節第2主日、教会から「よろこびの音」が聞こえる。

2018 日々の聖句 2月26日(月)
わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった。(詩106:6)

わたしたちを(誘惑に遭わせず、)悪い者から救ってください。(マタイ6:13)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳では「われらは先祖たちと同じく罪を犯した。われらは不義をなし、悪しきことを行った」。どこにも、「主に逆らった」という言葉はない。文語訳では「われら列祖(おやたち)とともに罪ををかせり。 我儕(われら)よこしまをなし惡(あしき)をおこなへり」で、ここでも「主に逆らった」という言葉はない。ヘブライ語原典にも「主に逆らった」という言葉はない。どの訳を比べてみても、この部分は「不義を行った」「悪事を行った」という言葉が並んでいるだけである。
「悪いことをする」と「主に逆らう」とは同じではない。神に逆らっている人でも良い行為の人もいれば、神に従っているつもりの人でも悪いことをしている人もいる。新共同訳の翻訳者たちはどこから、この「主に逆らった」という言葉を持ってきたのだろうか。
新共同訳は翻訳とは何かという重要な問題を提起している。「悪いこと」ではそれが何か不明瞭ではないか。そうするとこの聖句は非常に抽象的でどこにでも誰にでも何時でも当てはまる言葉になってします。しかし、ここは「先祖がした悪いことを、お前たちもしているではないか」というイスラエルに特定された聖句である。「わたしたちの先祖がどんなに悪いことをしたのか」。そしてそれを今わたしたちは同じように繰り返しているのか。という問題にまで突っ込んで、解釈している。それはもう、翻訳の限界を超えて「説教の領域」に入っているのではないだろうか。
7節に「わたしたちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず豊かな慈しみに心を留めず海辺で、葦の海のほとりで反抗した」という言葉が見られ、多分、7節は6節の具体例として語っている。それを先取りし、「悪いことを行った」ということの内容として「主に逆らった」としたのではないかと思われる。そのために主に逆らうということがダブってしまっている。この出来事は、出エジプト14:10~12に出てくる。細かい説明は省略してテキストだけを紹介しておく。「ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」と言ったではありませんか」。ここはあまり注目されないテキストである。しかし出エジプトの出来事の中ではもっとも重要な出来事である。

2018 日々の聖句 2月27日(火)
あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。(詩139:17)

心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(1ヨハネ3:20)

私の黙想:
「御計らい」という単語は、新共同訳で始めて現れる訳語である。これは「計らい」の丁寧語である。明鏡辞典では「考えて処置すること」「取り計らい」、新明解では「取り扱うこと」と説明されています。面白いことに、もっとも信頼の高い広辞苑では「はからうこと。処置」とだけ説明されて、あとは宇津保物語の用例がでているだけである。つまり、あまり親切ではない。新共同訳では旧約だけで8回しか用いられていない。
他に「計らい」という訳語を用いているのは、フランシスコ会訳で、「あなたの計らいは何と悟りがたく、その数は何と多大なことか」と訳している。
ここで「御計らい」と訳されている単語のヘブライ語は「レア」で、それ程長くもないこの詩の中でも2回も用いられている。2節では、神は遠い所からでも「わたしの計らい」を知っておられるという。17節では、私たちは「神の御計らい」を理解できないという。私は私自身の明日のことさえ知ることができない。ところが神は私のホンネをご存知で、私にとっての最善の「お計らい」をされている。ところが残念ながら、その私は神がどう考えてどう配慮しておられるのか知ることができない。となると、私は全面的に神にお任せてしましかない。

2018 日々の聖句 2月28日(水)
(恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、)心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。(1サムエル12:20~21)

無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(エフェソ5:17)

私の黙想:
今日の聖句は、重要な部分を避けて、結論だけを取り上げ、不自然な切り取り方をしている。そのために「むなしいもの」とは何かということを曖昧にしている。
ここで言う「むなしいもの」とは何か。文脈から考えると、端的に「王」がむなしいものであると考えざるを得ない。ところが文語訳でも口語訳でも「むなしい物」というように「物」ということがが使われている。この単語は「トーフー」で偶像を意味する。関根先生はこれを「むなしい偶像」と訳している。米田豊先生も、これは「偶像」を意味するという。
しかし、私はこれを単純に「偶像」と見做すことには違和感を感じる。確かにイスラエルの罪を問題にする時に、偶像礼拝が取り上げられている(10節)が、ここでは新しく王に即位したサウル王のことが主題である。イスラエルの王制についてはサムエルもヤハウェも反対であり、イスラエルはあくまでもヤハウェが王であるという点がポイントである。イスラエルが王を求めるということが「悪」である。しかし民衆の要求があまりにも執拗なためにヤハウェの方が妥協して王制を認めたのである(19~20節)。その文脈の中で、今までと同様に「主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい」と命じる。つまりイスラエルにおける「王制」とは、ヤハウェ制(神政)の中での「王制」である。いわば条件付の「王制」である。その上での「むなしいものを慕ってそれて行ってはならない」という。従って、ここでの「むなしいもの」とは「王制」に外ならない。それは「王を慕う」という姿勢である。はっきりいうと、王の偶像化が警戒されている。

2018 日々の聖句 3月1日(木)
主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。(詩25:12)

キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(1ペトロ2:21)

私の黙想:
「神を畏れる」とはどういうことか。逆のことを考えると、「神を畏れない」とはどういうことか。神など存在しないという生き方。自分が一番偉いと思っていること。
日本語では「畏れる」と「恐れる」、さらに「怖れる」や「懼れる」とほとんど似たような意味の言葉がいろいろある。
コンコルダンスで調べると、ヘブライ語では日本語以上に「おそれる」を意味する単語があるらしい。ところが、口語訳では「畏れ」という単語は一回も用いられず、すべて「恐れ」という訳語で統一されている。ただし、ここで用いられている「ヤーレ」(形容詞)を逆引きすると別なところでは「敬う」というように動詞形で用いられている(レビ19:30、他)し、「かしこむ者」と訳されている所もある(コヘレト7:18、口語訳)。その意味では、ヘブライ文化とヤマト文化とは共通点がある。
ところが英語ではfear(恐怖)という言葉しかない様に見える。(このことは正しいか、どうか疑問である?)。アルベルト・シュバイッツアーの思想の中心概念は「生への畏敬」(die Ehrfurcht vor dem Leben)であるが、ドイツ語ではFurcht(恐れ)とEhre(尊敬、名誉)という言葉の合成である。
この世界には、何か不気味な力が働いているという感覚、それは「悪」か「善」か、よくわからない。だからシュバイッツアーのように「畏敬」と言い切ってしまうと、少しズレるように思う。宗教の根源にはこの「畏れ」か「恐れ」か、分離できないような異次元名存在に対する「畏れの感覚」がある。その中で、この不気味な相手をヤハウェ(主)と認める、というより「ヤハウェ」だと断定する。それが信仰の土台である。

2018 日々の聖句 3月2日(金)
神は、(奥義と秘義を現し)闇にひそむものを知り、光は御もとに宿る。(ダニエル2:22)

イエスの言葉:わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。(ヨハネ12:46)

私の黙想:
今日の聖句、何か曖昧感が漂う。「光は御もとに宿る」とはどういうことか。口語訳をみると、「神は深妙、秘密の事をあらわし、暗黒にあるものを知り、光をご自身のうちに宿す」。つまり、神は懐中電灯を持って居られるので他所からの光を必要としない。文語訳ではこうだ。「彼は深妙秘密の事を顯し、幽暗(くらき)にあるところの者を知たまふ。また光明(ひかり)彼の裏(うち)にあり」。ここでの「闇」「暗黒」もただ単に暗闇というのではなく「幽暗(ゆうあん)」とは何か秘密めいた世界で、傍目にはうかがい知れない状況」である。要するに、神ご自身が「奥義と秘儀」なのであり、だからこそ、傍目には見えないうごめく闇の世界でさえも神の目にはすべて見えている。何故かというと、光そのものが神の中にあるのだという。
この場面は、ネブカドネツァル王がみた夢について、それを解き明かして欲しいという場面で、国中の夢の専門家を集めて解きあかしを命じるが、満足した解答が得られるない。最後に、ダニエルを呼び出し夢の解読を頼む。「幽暗にあるところのもの」とは個人の心の奥底にある願望・恐怖であり、それが夢として現れる。
今日の聖句は、その時語ったダニエルの言葉で、人生の、あるいは人間の秘密に関わることで、「私の神」は夢ぐらい簡単に解き明かしてくれると宣言する。

2018 日々の聖句 3月3日(土)
主がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。(エゼキエル2:2)

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(ヨハネ4:25~26)

私の黙想:
今日の聖句はエゼキエルが預言者として召命されたときの情景が描かれている。あまり預言者エゼキエルのことについては語られないので、今日は簡単に預言者エゼキエルの誕生の経緯を整理しておく。
1:1~3によるとエゼキエルは、ヨヤキン王および当時のイスラエルの指導者たちがバビロンへと連れて行かれたときに(第1次捕囚の時、BC597)に司祭であった父親と家族と共に連れて行かれたのであった。ということは、当時のイスラエルではかなりの家柄であったと思われる。その時、彼が何歳だったのか判らない。少なくとも成人になる前であったと思われる。(私の推測では10歳前後)
それから5年目、ケバル川のほとりにイスラエル人たちは住んでいた。その時、エゼキエルは恐ろしい幻を見た(1:4~27)。この個所を何度読み返してもその幻の姿はハッキリしない。(画像を掲載しておきます。作者不明)
4つの生き物で、よく見ると人間の姿をしているようであった。判らないのはそれぞれの生き物が4つの顔をもち、4つの翼をもっていたという。もう頭の中はゴチャゴチャになる。これ以上説明できない。ある中世の画家がそれを描いた資料が残っているが、どんなになっているのかよくわからない。
もう、それを見たエゼキエル自身に聞くしかない。彼は明白に「これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した」(27節)。その時その怪物「主の栄光」と呼ばれた怪物がエゼキエルに、語りかけた。一言「自分の足で立て」(2:1) 。これはエゼキエル自身が聞くヤハウェの初めての言葉であった。今日の聖句はそれに続く言葉である。
「主がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2:2)。
ここでの表現の面白さは、ヤハウェの言葉が聞こえ始めた時に、ほとんどそれと同時に「霊がわたしの中に入ってきた」、その時「わたしを自分の足で立たせた」。自分で立ち上がったというより、「立ち上がらされた」のである。
具体的に状況を想像すると、訳も分からない幻を見て、夢うつつの中で、「立ち上がれ」という主の言葉が聞こえてくる、すると不思議に私の内側に立ち上がる力が沸き上がってきて、スクッと立ち上がった。
それはまさに福音書でいうと、ヨハネ福音書5章でベトサダの池の畔での奇跡を思い浮かべる。一人の男が池の畔で池が動くのを待っている。そこにイエスが現れて、簡単な会話に引き続いて「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と声が響き渡ると、ほとんど同時に立ち上がり床を担いで歩き始めた、という。

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