ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/10/15~10/21

2017-10-21 11:50:15 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/10/15~10/21

2017 日々の聖句 10月15日(日)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き(聖なる神殿に達した)。(ヨナ2:8)

誘惑に陥らないように祈りなさい。(ルカ22:40)

私の黙想:
今日の聖句の場面は大きな魚の腹の中である。預言者ヨナは神からの指令に背き、神から逃げた。神の居ないところはどこか。いろいろ経過した結果、海に投げ込まれ、大きな魚に飲まれた。ここなら「神は居ない」。ヨナは神から、神の目から逃げおおせたと思った。それでも死に際に祈った。その祈りは誰にと言うわけではない。ただ習慣的に祈ったのであろう。祈りは習慣化する。習慣化した祈りなど聞かれないと思っている信仰熱心な人もいるだろうが、習慣化した祈りも「神の届いた」。ヨナ自身がどんなに驚いたことであろう。「神の居ないところ」と思っていたところに「神が居られた」。ここで注目すべき言葉は、場違いな「聖なる神殿に達した」という言葉である。日々の聖句ではこれを省略している。「神なき世界」での祈りが「神殿に届いた」。祈りにおいては、「圏外」はない。電波には「圏外」があるが、祈りには圏外はない。そして、ヨナの祈りは直ちに答えられ、「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」(2:11)。
ヨナ物語のもう一つの主題は「悔い改め」である。預言者の働きの結果、ニネベの人びとは悔い改めた。それを見て、神も「悔い改めた」。ヨナは大きな魚の腹の中で悔い改めた。悔い改めには制限はない。もう悔い改めてもブダだと言うことはない。神でさえ悔い改める。悔い改めることによって事態は変わる。

2017 日々の聖句 10月16日(月)
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き(わたしの恵みの業が絶えることはない)。(イザヤ51:6)

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。(1テサロニケ5:9)

私の黙想:
天地が朽ち果て、そこに住む生物が皆死んでしまっても、「わたしの救い」は続くという。そういう状況における「神の救済」とは何か。永遠に続く「神の正義」とは何か。新共同訳の「恵み」とは「正義」の誤訳である。(「日々の聖句」では括弧内は省略されている。)
これはただ単に「神の意地」の表現であろう。昔の武士が「メシは食わねど高楊枝」みたいなもので、神の意地は(神がなさろうと意志していることは)何が何でも貫くという意志の強さを表現しているのであろう。
もちろん、ここで意味されていることは、神の民の救済である。どんなことがあっても、誰から反対されても、神はイスラエルを救うとい意志された。その意志は何が何でも貫く。それが「神の意地」だという。

2017 日々の聖句 10月17日(火)
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル3:5)

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカ11:9)

私の黙想:
ヨエル書3章(1~5)は、口語訳では、2章に組み入れられ(28~32)ている。
この個所は終末における天変地変が描かれている。とくに1~5節は、ペンテコステの日にペトロが説教において引用した個所として有名である。その意味では新生キリスト教の出発点となったテキストである。「ヤハウェの名を呼ぶ者は救われる」、ここで「ヤハウェの名」を「イエスの名」と同一化したことが、キリスト教の聖書的土台となったと言える。この場合の「救い」とは天変地変からの救出、脱出を意味する。もう少し理屈を述べると、世の末に注がれる「わが霊(=神の霊)を受ける者は「主の名を呼ぶ者」、神の霊によって「イエスの名」が「ヤハウェの名」とされる。
旧約の聖句と新約の聖句とを並べて考えると、一つの共通点が見えてくる。それは先ず「こちら側」からの行動があって、それに答えて「あちら側」から反応がある。「主の名を呼ぶ」→「救われる」、「門を叩く」→「開かれる」。こちら側からの行動がなければあちら側からのそれに対するレスポンスはない。

2017 日々の聖句 10月18日(水)
なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。(サムエル下12:9)

(しかし、)神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。(2テモテ2:19)

私の黙想:
今日の聖句、叱られているのはダビデ王、叱っているのは預言者ナタン。ナタンはダビデ付きの預言者。今でいえば政権の官房長官ということか。預言者ナタンの姿勢は凜としている。変な忖度はない。堂々と、ダビデ王を叱責している。これが官房長官の役割であろう。ここで叱責されている内容は、国家の存亡を掛けるような公的問題ではない。ダビデ王のプライバシーもプライバシー、ダビデ王の女性問題であり、それもダビデ自身は密かに、そつなくした悪行である。おそらくダビデの側近しか知らないことで、黙って居れば済むことだったかも知れないが、預言者ナタンは、黙っていなかった。ここでナタンが取った態度は賢い。外から強圧的にダビデを批判するのではなく、ダビデ自身の内面に問いかけ、ダビデ自身が自分の行為の本質に気付くような仕方で問題を指摘する。その上で、ダビデ自身が自分の「罪」に気付いたときに、「その男はあなただ」と鋭く指摘する。この言葉を発したとき、ナタンはどんな顔をしていたのだろう。下手をすると、ナタン自身の生命の保証もない。文字通り命をかけた一言、それが「その男はあなただ」。こういうことを指摘してくれる部下を持つ指導者は幸いだ。こういう人物が居たからこそ、ダビデはイスラエル史における最高の王として賞賛されたのである。

2017 日々の聖句 10月19日(木)
主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。(詩92:6)

キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:7)

私の黙想:
今日の聖句、その通り違いないが、卑小な人間がいかにしてそれを知り、讃美することができるのか。小さいものは大きいものを理解することはできない。バカには賢い人の賢さを理解できないから、常に自分のレベルでしか相手を理解しない。そんな不遜なこと皮肉っていると、ガーンと頭を殴られた感じがする。この詩の詩人がそのことを既にこの詩の中で述べている。今日の聖句に続いて詩人は詠う。「愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません」。じゃ、それを知っている詩人は「愚か者」でもなく「無知な者」ではないのだろうか。この詩人だって「私は知っている」とは言えないであろう。むしろ、「そうに違いない」と確信しているということで、それは信仰の領域に属することである。とくに「御計らい」がそうである。これは経験していることに属している。後から考えてみると、驚くほど上手くいった。とうてい自分が考えていたこと、自分自身の能力では思いもつかないことが自分の人生の中で起こっているという経験である。あるいは、その時はとんでもない「不幸」「不運」と思っていたことが、実は神が私のためにした行為、つまり「御業」の大き差に、驚いている。これは体験である。このような体験を繰り返すと、次の段階のことも、「きっと良いに決まっている」と思う。
創世記にヨセフが兄たちに言った言葉を思い起こす。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:19~20)。これが創世記におけるいろいろな出来事の結論である。

2017 日々の聖句 10月20日(金)
神は人を男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。(創世記5:2)

尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ロマ12:10)

私の黙想:
私はこれだけ聖書を読みながら決定的な間違いをしていたらしい。神は「彼らを人(アダム)と名付けられた」。「アダム」という名前は男だけではないのだ。女もアダムなのだ。そして「アダム」とは男の固有名詞ではないのだ。変な言い方をすると男も女も共に人間として祝福された。語源の問題は横に置いて「アダム」とは神によって祝福された者という意味で「人間」なのだ。少なくとも創世記第5章ではそういう意味である。

2017 日々の聖句 10月21日(土)
主よ、(それなら)何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。(詩39:8)

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)

私の黙想:
日々の聖句では括弧の中の「それなら」を省いているが、これを省いてはいけない。口語訳でも新改訳でもはこの言葉は「今」、フランシスコ会訳でも「今私は何を期待できましょうか」、岩波訳は丁寧に「ところで」と訳している。つまり、今日の聖句において、ある意味で「それなら」は決定的な意味を持っている。これを抜いてしまったら、信仰者の一般的な「希望」にしかならず。それに続く文章とが重なってします。後半の「待ち望みます」は、信仰者の一般的な生き方としての「希望」であるが、前半の「望」は、その直前に述べられている深刻な問題に対する緊急の課題についての選択の問題としての「期待」である。
いろいろ述べることはあるが、まさかそのために選ればれた聖句ではないだろうが、今日は私たち日本人の信仰者にとっても重大な選択が迫られている総選挙直前の日である。主よ、それなら私たちはどの党に期待を掛けたら良いのでしょうか。ローズンゲンって不思議ですね。2年前に籤で決められた聖句が、まさにこの日に聖句になるとは。やはり神による選びなんでしょうね。

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