ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 04/28~05/04

2013-05-06 08:50:19 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 04/28~05/04

日々の聖句2013 04月28日(日)
神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう。(ヨナ3:9、口語訳)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。(1テサ5:9)
私の黙想:
預言者ヨナが悪の蔓延るニネベの町に派遣され、神の刑罰を語る言葉の一部。滅びを語りつつ「神の心変わり」の可能性を語る。これはヨナの「余分な言葉」である。ヨナにはそのことが既に分かっていた。ヨナはそうとうに優れた預言者であったらしい。ヨナの働きの結果ニネベの人々は悔い改めた。そのため神の怒りは治まりニネベの町は滅ぼされなかった。ヨナ書の本当の物語はここから始まるが、それはさておき、ヨナの預言活動の成功の秘密は何だったのか考えさせられる。その秘密が今日の聖句に隠されているように思う。
ヨナはこの説教の中で「われわれ」と言う。つまりヨナは自分自身をニネベの町の人々と同じ立場において「われわれ」と言う。ニネベの人々の滅びを語りつつ、ヨナの説教は上から下へではない。ニネベの人々と同じ地平に立って、自分自身を滅ぼされるべき人間として語る。牧師の説教もこうでなければ、人々は聞き入れない。
口語訳の最後の一言「誰がそれを知るだろう」という言葉は何を意味しているのだろうか。この言葉の故に口語訳が選ばれたのであろうと思われるが、この言葉は「謎」である。ヨナは思わず余分なことを言ってしまって、慌ててそれを否定しようとした言葉なのか。とにかく、非常に気になる一句である。

日々の聖句2013 04月29日(月)
貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。(申15:7、口語訳)
パウロは言った。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使20:35)
私の黙想:
「貧しい兄弟」とは誰のことか。口語訳では「主が賜る地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば」と規定されているが、新共同訳では「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば」とある。全イスラエルか、町内か。問題は同胞の範囲である。気持ちとしては「顔見知りか」「誰か分からないが、ただ同胞というだけ」か。
沖縄問題が頭をよぎる。東北の災害問題も頭をよぎる。沖縄を「切り捨てる」ことによって成り立ったサンフランシスコ講和条約、それは本当に日本の主権の回復であったのか。むしろ日本のアメリカに対する日本の第2の降伏調印である。

日々の聖句2013 04月30日(火)
遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。(イザ33:13)
パウロの手紙:あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。(1テサ1:4-5)
私の黙想:
「わたしの成し遂げたこと」も「わたしの力強い業」も同じことを指している。信仰の原点、根拠、出発点は神が成したこと、神の力強い業にある。いや、私が実際に経験したことが「神が成したこと」と受け止めたことが信仰の原点である。いや、あれは私がしたこと、私の努力の結果であるとか、偶々そうなっただけと考えている限り信仰は成立しない。
「それ」とは何か。ある人にとっては死ぬような病気が治ったこと。ある人にとっては妻と出会ったこと。ある人にとっては今私がここにいるということ、ある人にとっては「Cogito ergo sum(われ思う、故に我あり)」、ある人にとっては「Gott ist tot(神は死んだ)」、ある人にとっては燃える柴、要するに人間が経験するすべてのことがそ「それ」になる権利を持っている。問題は「それ」を神の成したことと受けとめるか、否か。
私は佐世保の地に自分の足で立ったとき、あり得ないことが現実に起こったと思った。考えてみると、あの時の経験がすべての始まりであり、現在でもある。


日々の聖句2013 05月01日(水)
あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい。わたしは主である。(レビ22:31)
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラ6:2)
私の黙想:
ユダヤ教の律法主義を厳しく批判するパウロは、「キリストの律法」と言い換える。キリストの律法とは「互いに重荷を担い合う」ということに尽きる。つまり人間が人間である限り従うべき当然の義務とでもいうべきか。「当然」とは俗にいうと「当たり前の」という意味で、この「当たり前のこと」を定義づけたり、その根拠を説明したりすることは非常に難しい。私にとって「当然のこと 」が他人にとっては「当然ではないこと」ということがあり得る。当然のことの最も典型的な用例は「基本的人権」であろう。基本的人権とは人間としての当然の権利、これを法律用語辞典では「人間の生存にとって不可欠であると考えられる権利の概念」と解説されている(自由国民社版『図解による法律用語辞典』)。
「互いに重荷を担い合う」ということは、人間が人間として存在する場合の人間同士の「当然の関係」である。
日本聖公会の法規では教会の基本財産について「当然の基本財産」(第176条)と「議決による基本財産」(第177条)とに分けている。177条については分かりやすいが176条の「当然の基本財産」についてはその根拠を説明するためには、教会とは何かという基本的な理解を共通にしていないと説明困難である。


日々の聖句2013 05月02日(木)
あなたの慈しみをもって、わたしを力づけてください、あなたの僕への仰せのとおりに。(詩119:76)
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(2コリ1:5)
私の黙想:
最後の一句が引っかかる。この句は何だろう。フランシスコ会訳ではこの句を冒頭に持ってきている。そうするとスッキリする。口語訳も新改訳ももっと多くの言葉を使って丁寧に訳している。たしかにヘブライ語原文では、新共同訳の順序になっている。
本文は「あなたの慈しみがわたしの励ましになるように」。神が慈しみ深いことは永遠不変であるが、それが私の励ましになるかどうか。それは私の在り方、生き方による。それを実現するのが、私の神の言葉に対する信仰による。
門叶 国泰
新共同訳が「力づける」と訳した箇所のマソラ原文の動詞は「ナーハム」のpiel形(強意)であり、その原意は「comfort,console」である。この「ナーハム」は、「ノアの命名(創5:29)」の由来となった旧約の「キーワード」の一つであり、通常は「慰める」と訳される。新共同訳の詩編の訳者(119:50も同じ)は、これを「力づける」と訳しているが、同じ新共同訳でも創世記24:67(イサクへの慰め)、イザヤ57:18(へりくだる者への慰め)では、文字通りに「慰め」と訳している。翻訳者が違うのであろう。フランシスコ会訳は「慰め」と訳しているので、カソリック側が担当した箇所ではなさそうだ。口語訳・新改訳「慰め」、KJ&RSV「comfort」。

文屋善明
確かにここは「励まし」よりも「慰め」の方が相応しいと思います。「励まし」には前に押し出すニュアンスがありますが、「慰め」には現状に堪え忍ぶ力を感じます。

日々の聖句2013 05月03日(金)
主よ、あなたの慈しみが、とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。(詩138:8)
わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェ2:10)
私の黙想:
言葉とは面白いものである。「御手の業」(新共同訳)というのも「あなたの手の業」(フランシスコ会訳)というのも訳語としては意味の違いはない。ところが印象的には前者は今も継続している神の創造の業をイメージし、後者は「わたし」をイメージする。何故だろうと考える。「あなた」という語が入るか入らないかの違いである。おそらく「あなた」という語が「わたし」を引き出しているのか。「御手」という敬語が関係を疎遠にしているのか。「あなたの手」という言葉にはぬくもりを感じる。「御手」という言葉には神の偉大さを感じる。この詩においては「聖なる神殿」、「地上の王は皆」、「大いなる栄光」が高らかに歌われると共に、小さいわたしに「あなたは手を伸ばし」「あなたの右の手」が救ってくださると歌う。神の偉大さは偉大さの故に、小さいわたしには遠くに感じるが、その関係を「放さない」で下さいという祈りである。漫才での相方がどんどん有名になっていくとき、それを眺めている残された相方の寂しさに通じる。敬語の使い方は難しい。

日々の聖句2013 05月04日(土)
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。(詩94:9)
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(ルカ9:46-48)
私の黙想:
今日の聖句は実に面白い。こういう発想、こういう議論の展開はいかにもユダヤ人的である。「神はご自分にかたどって人を創造された」(創1:27)この発想を反転させると、人間が神を作ったというフォイエルバッハからマルクスへと展開された思想になる。

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