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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/05/21~05/27

2017-05-27 09:04:57 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/05/21~05/27

2017 日々の聖句 5月21日(日)
主はソロモン(の夢枕に立ち、)に「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンは答えた。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。(列王記上3:5,9)

どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。(ヤコブ1:5)

私の黙想:
国のトップに立つ者の模範的な願い(祈り)である。この話、儀式的な場でのセリフではなく、「夢枕」での話であることが重要である。つまり、誰かが聞いているとか、誰かに対していい格好しているのとは違う。まさに「夢枕」、超個人的な経験として、その時のソロモンのホンネであろう。そのことにより、ソロモンは「知恵ある王」として、全世界に認められた。
ああ、そのソロモンでさえ、王座に長く就いていると、堕落する。権力の座は人間にとって「魔の座」、「堕落への入口」なのであろう。ダビデ王でさえ、その危機に襲われることがあったが、その時、彼を宗教的に支えていた預言者の諫言に「我に返り」、その権力の座を無事に守ることが出来た。これは必ずしも政治権力だけではない。宗教集団でも、その他いかなる集団でも怒る普通のことである。

2017 日々の聖句 5月22日(月)
あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:2)

私の黙想:
今日の聖句何を言いたいのだろうか。これはヤハウェの言葉であり、とくにユダの人々、エルサレムにいる人々への呼びかけの言葉である。全体の雰囲気としては、エルサレムを中心とするユダの地、つまり、北のイスラエル王国との対比の中で、南のユダの地以外の場所に種を蒔くなという意味らしい。何故なら「北から」、つまり北部方面を支配しているアッシリアが勢力を拡大し、災いが始まる。やがて北のイスラエルを占領し、その勢いで南のユダ王国にまで及ぶから、そこに蒔いた種は無駄になる。つまり籠城の覚悟をして準備せよということである。だからあなたたちにはヤハウェに対する信仰を革新し、国内の治安を守れ、ということらしい。
ここで「耕作地」と訳されている言葉は、口語訳では「新田」、新改訳では「耕地」で、それを開墾せよ、ということである。フランシスコ会訳は面白い。「休閑地を耕せ」、岩波訳はもっと親切で、「開墾せよ、お前たちの未墾の地を」。何れも、領土の拡大ではなく、内向きの働きである。これは実際的な「耕地」という意味と同時に、「内なる信仰」を念頭に入れている言葉であろう。
非常に冷たい言い方をすると、北のイスラエル王国はアッシリアの圧力のもと弱り果てている。今、北に攻め入れば、自分たちの領土を増やせる。しかし、それはしてはならい。必ず無駄になる。むしろ自分たちの内部を強化することに励めということであろう。
信仰は攻めるときあり、守るときありだ。伝道もしかり、攻めるときあり、うちに沈静して深めるときありだ。

2017 日々の聖句 5月23日(火)
友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。(箴言14:21)

だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)

私の黙想:
今日の聖句、私はいささか不満だし、お行儀が良すぎる。つまり観念的である。現実に向かいあっていない、ように思う。何もかも聖書のことが絶対とは思えない。と批判する前に、ここで言う「友」とは誰か。口語訳では「隣の人」である。フランシスコ会訳では「隣人をさげすむものは罪を犯すが、貧しい者を憐れむ人は幸い」。これならかなり納得する。「隣人」とは必ずしも友ではない。しかし、私の実生活に深く関わっている(特にマンション住まいでは)。「遠い親戚より近くの他人」という言葉がある。いざ本当に困った状況になったとき、頼りになるのは隣人だ(特に高齢者にとって)。別に隣人の人格とか教養がどうのこうのではない。だから隣人を軽蔑したら損をする。岩波訳では「隣人をそしる者」とある。悪口を言って回るというようなことであろう。そんなことをしたら自分自身にそれは舞い戻ってくる。そうなると、この「貧しい者」という言葉にもニュアンスがある。要するに困った状況に置かれている人であろう。その人を見たときに心が動かされるのは、人間としての当然のことである。上から目線の憐れみではない。

2017 日々の聖句 5月24日(水)
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる。(申命記7:9)

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

私の黙想:
本当にあなたはあなたの神を知っているか、と問われたら、自信を持って「ハイ」とは言えない。「神を愛する」とはどういうことか、私は知らない。妻を愛し、家族を愛しているように、神を愛しているわけではない。「戒めを守る者」と言われても、守れないというのが実情である。ああ、どうしよう。これでは、神からの慈しみを期待する方が間違いかも知れない。
じゃぁ、と開き直って、信徒の代表だと言われるペトロは、神を愛していたのか。確かに愛そうとはしていたが、愛しきれなかったのじゃないか。むしろ、神を愛するとは、神が私の中から、私の生きている姿の中から、「コイツは俺を愛しているな」と思っていただくしかない。

2017 日々の聖句 5月25日(木)
遠方からも人々が来て、主の神殿の建築に携わる。(ゼカリヤ6:15)

アナニアは祈った。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒言行録9:13,15)

私の黙想:
今日の聖句、文脈から浮いている。取って付けたような感じが残る。捕囚から帰還した人々は疲れ果てていたし、財産もほとんどない。何とか自分たちの指導者を定めたが、王冠がない。何もかも、ゼロからの再出発である。王冠は民衆の中から何とか工面してやっと作れた。ヤハウェは、彼らに神殿を建てよという。正直言って、それどころではない。先ず、明日の食物もないような状態であっただろう。とうてい、自分たちの力で神殿など作れたものではない。ところが、そこで一つの奇跡が起こった。遠い異国の人々が神殿建築に積極的に携わってくれたのだ。それで、彼らは何とか定礎式をすることが出来た。が、その後は、別の機会に。
神は私たちが本当に行き詰まったときに、不思議なところから、不思議な協力者を備えてくれる。初代教会の人々、教会はまだ弱体であり、そこに強烈な迫害者が現れた。ところが神は不思議なことをなさる。その迫害者が教会の強力な伝道者になったのである。

2017 日々の聖句 5月26日(金)
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。神は北斗やオリオンをすばるや、南の星座を造られた。(ヨブ9:8~9)

天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。(黙示録14:7)

私の黙想:
「天を広げ」、なんという壮大さか。「海の高波を踏み砕かれる」、何故かもっと荒れそうな気がするが。近頃は、星座を見て神の創造を思うことが少なくなったような気がする。「南の星座」を口語訳は「南の密室」とあり、何か秘密めいている。フランシスコ会訳では、直訳では「南の部屋」であると解説しパレスチナ南方で見られる星座であろうという。新改訳は「南の天の室」、岩波訳では「南の密室」と訳し、南半球の星座のことと解説している。まぁ、どうでも大したことではない。
さて、何故ヨブはこんなことを縷々論じているのだろうか。面白いことは、9章の冒頭で「私だってそれぐらいのことは知っている」と述べて、その当時の森羅万象に関する科学的知識を長々と描写している。その意味では非常に興味深い章である。
日本人にとって、昔から、今でも、カミは必ずしも天地を創造された方である必要はないようだ。もっと身近で、現れたり消えたりするのがカミらしい。

2017 日々の聖句 5月27日(土)
主は(宥めの香りをかいで、御心に)言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)

あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。(1ヨハネ3:5)

私の黙想:
今日の聖句は微妙だ。先ず日々の聖句では括弧内を省略している。以下は、要するにヤハウェの独り言である。「人に対して」の「対して」を他の邦訳はすべて「ゆえに」と訳している。「ゆえに」と「対して」では意味が全然違ってくる。ここはやはり「ゆえに」であろう。
ここでのヤハウェは「諦めて」いる。人間を創ったのはヤハウェ自身であり、人間は本性的に「悪」だという。「幼いときから」あるいは「初めから」か、ここでは「悪」と断定しているが、フランシスコ会訳では、一寸変化球で「悪に傾いているから」と訳している。この部分、原罪論によって異なるのであろう。
ともあれ、ここでヤハウェは人間を「欠陥作品」として認定し、これにはもう手を付けられない。その欠陥は創造者である私にあるのだから、という「諦め」を感じる。ヤハウェの諦めが人間の救いであり、もう「手直し」をしないと宣言されたようなもの。人間は、自分の生き方で、自分自身を変えていかねばならない、という責任を負う存在として認められたということであろう。

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