ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

日本に原発が導入された瞬間

2011-06-29 09:50:55 | ときのまにまに
原発推進に賛成する人も、反対する人も、どちらでもない人も、これだけは、ぜひ知っておいて欲しい。特にその日付に注意。その前年1953年12月8日、日本人にとっては忘れることができない真珠湾攻撃の記念日に開催された国連総会でアメリカの大統領アイゼンハワーが有名な「アトムズ・フォー・ピース」(原子の平和利用)という演説をしている。この演説そのものは、原子力という人類が未だかつて経験したことのないエネルギーを平和のために役立てようという呼びかけであるが、その背景になっている事柄はアメリカとソ連(当時)との核競争をはぐらかすものでったと言われている。
それはともかく、この演説を直接聞いたか、どうか、原子力に異常な関心を抱いた日本人青年政治家がいた。下記の文章を読んで、なぜ、こんなに重要なことが、しかも若い野党議員の提案による議案がいとも簡単に衆議院を通過してしまったのか。謎は深まる。しかし、これは事実なのである。ともかくこの事実だけは記憶しておく必要があるであろう。
以下、高木仁三郎さんの『原子力神話からの解放』からの抜き書きを記録しておく。

ある青年政治家による強行突破
それでは日本の事情はどうだったかというと、これとよく似た状況でした。日本では産業界もそうですが、とくに学術会議を中心とする学者たちの間で、軍事利用と明確な境界線が引けそうもない、あるいは軍事利用の方向へ流れていく可能性が強い原子力開発については、非常に抵抗が大きかったわけです。
1954年の3月2日、これは特別な日です。その前日の3月1日に、後に久保山愛吉さんが亡くなることになる、死の灰の惨状をもたらした、あのビキニの実験が行なわれています。それとほとんど時を同じくして3月2日に、突如として、国会に原子力関連の予算案が出されて、それが国会を通過したのです。
その中心的な役割を担ったのは、当時、アメリカで勉強してきて原子力に非常に乗り気であった、中曽根康弘という青年政治家だったのですが、それはまさに、学術会議の学者たちにとっては寝耳に水の出来事でした。
当時の学術会議の学者たち、茅誠司氏とか伏見康治氏とか藤岡由夫氏といった一連の人たちは、学術会議内部でも原子力研究をどうするのかという議論をしており、日本が性急に原子力研究をやることには否定論が多かったのです。産業界にしても、お金を投資して、すぐにエネルギー源になるとか商売になるとは思っていませんでしたから、いわば、ちょっと腰が引けた状態でした。そういう状況のなかで、中曽根氏が政治的に原子力の導入を図りました。
「札束で学者のほっべたを引っぱたく」といった言葉がその当時使われましたが、そういうかたちで、政治的に原子力を推し進めたのです。たとえば、ちょっと古い本ですけれども、三宅泰雄さんが 『死の灰と闘う科学者』(岩波新書、1972年)を書いています。たいへん有名な歴史的名著と言っていい本ですが、その三宅さんの言葉を引用します。
「3月2日に突如として原子炉予算が、予算修正案の形で衆議院に提出された。これは当時の野党の一つであった改進党からの提案だった。この追加予算案は与野党三党(自由党、日本自由党、改進党)の共同修正案として、たいした議論もなく3月5日に衆議院を通った。
その内容は、2億2500万円が原子炉をつくる費用、ウラン資源の調査費が1500万円、チタン、ゲルマニウムなどの資源や利用開発のための費用が3000万円、図書、資料費が2000万円、合計3億円であった。この予算案は参議院におくられ、自然成立の形で第19国会を通過した。
この原子炉予算案をつくったのは、当時の改進党所属の代議士中曽根康弘、斎藤憲三の両氏、ほか数名といわれている。中曾根氏は、後にそのころのことを次のようにのべている。
『学術会議においては、(原子力の)研究開始にむしろ否定的な形勢が強かったようであった。私は、その状況をよく調べて、もはやこの段階に至ったならば、政治の力によって突破する以外に、日本の原子力問題を解決する方法はないと直感した。……国家の方向を決めるのは、政治家の責任である。・…‥』(日本原子力産業会議、『原子力開発十年史』、1965年)」
このように、政治的に唐突に、原爆体験から10年も経たない1954年、折しもビキニの年に、あの放射能の惨事に多くの日本人が目覚めた、広島以上に目覚めることになった、そのビキニの年に原子力導入が強行されたのです。>(高木仁三郎『原子力神話からの解放』、77-79頁)

最新の画像もっと見る