ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/8/19~8/25

2018-08-25 10:02:55 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/8/19~8/25

2018 日々の聖句 8月19日㈰
主は(わたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。)わたしを遣わして(貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。)主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知してする。(イザヤ61:1,2)

パウロの手紙:わたしたちは、(あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、)あなたがたの喜びのために協力する者です。(2コリント1:24)

私の黙想:
今日の聖句をイザヤ61:1,2といえるのだろうか。こんなにつまみ食いをした文章を「聖句」と言えるのだろうか。(もっとも、ヘブル語原文あるいはルター訳ではどうなっているのか、知らない)
ともかく、編集者が意図している点は、預言者イザヤは「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知してする」ために遣わされた、ということである。重要なポイントは「主が恵みをお与えになる年」と「わたしたちの神が報復される日」とは同じ日であるということである。「報復する」相手はイスラエルに取って「敵」であろう。おそらくイスラエルは現在(その時)異民族よって支配され苦しめられていたのであろう.その苦しみから解放されることが民族の願望であり「恵の年」である。
ハッキリ言うとバビロンの捕囚から解放される日の預言である。その時神はその民族に報復される。
今、私たちの国はある種の危険な勢力によって荒らされている。この不正義から解放されて真に民主的な国になりますようにと祈る。

2018 日々の聖句 8月20日㈪
主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22)

信徒たちは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をした。(使徒2:46)

私の黙想:
「喜び」の理由がこの句の直前に書かれている。22節を全部書き出すと次のようになる。「そして七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである」。
何故ローズンゲンの編集者はこの部分を省いたのだろうか。これを省くことによって読者は、この聖句を可能な限り広く一般化して無意味化する。喜びは具体的なものである。何でもかんでも、すべてのことを神によって喜びとする。それはそれとして意味はあるだろうが、私は聖書をそういうように読みたくない。神が私に与える喜びも悲しみも具体的な出来事である。
実はここでは奇跡のような不思議なことが起こっている。あのアッシリアが神殿建築を支援しているという。かつてはイスラエルを滅ぼし支配しようとした国である。しかし、バビロンの捕囚後、祖国に復帰してきたイスラエルの支援者になっている。これは驚くべきことであった。

2018 日々の聖句 8月21日㈫
わたしたちの神よ、わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。(列王記上8:57)

弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:20)

私の黙想:
先代ダビデ王から托された神殿も無事竣工し、今まで幕屋に安置されていた契約の箱や礼拝用具等を神殿に移す厳粛な祭典が催された。それまでこの幕屋は「臨在の幕屋」(4)と呼ばれていた。
この章には長い長いソロモンの祈り(12~53)が掲載されている。それに続いてソロモン王は民衆の方を向き、王としての決意と民へのメッセージ(56~61)を述べる。このメッセージは民衆への言葉であると同時に神への祈りでもあった。これこそ全民衆を代表して祈る、いわゆる「代祷」である。
今日の聖句はその中の1節である。民衆の前でこのような祈りを捧げる民の指導者、ソロモンの真摯な姿であった。

2018 日々の聖句 8月22日㈬
主よ、まことに憐れみ深いあなたは、彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず、見捨てようとはなさらなかった。(ネヘミヤ9:31)

わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。(コロサイ1:3)

私の黙想:
エズラ記、ネヘミア記はバビロンの捕囚後、祖国に復帰して新しく神殿を建てるまでの記録である。だからこの聖句での「彼ら」とは、旧約の「イスラエルの民」というよりイエスに繋がる新約の「ユダヤ民族」というべきである。「滅ぼし尽くそうとはなさらず」とは、バビロン捕囚に至るまでのイスラエル史でエジプト、アッシリア、バビロン等の支配を受けつつ、滅びなかったという歴史である。言葉を変えると、彼らの歴史は「生き残りの歴史」であった。

2018 日々の聖句 8月23日㈭
万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。(詩84:2)

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)

私の黙想:
今日の聖句、何か違和感があり、口語訳を開くと「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう」。成る程、これなら知っている。要するに「神殿讃美」の詩である。この詩の中で次の部分が圧巻である。
「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」(2~4)。
詩人は神殿の軒に巣を作っている「すずめ」や「つばめ」を羨ましがっている。神殿の庭にテントでも張って住みたいという。そうすれば、朝から晩まで、夜中中でもヤハウェを讃美することができるという。

2018 日々の聖句 8月24日㈮
わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。(ゼカリヤ3:4)

息子は言った。「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」(ルカ15:21~22)

私の黙想:
ゼカリア書、読んだ覚えがない。ある聖書研究者がこんなことを書いている。「幻とそれの解説という謎めいた書き方をしており、何を言っているのか僕にはどうにもわからない。あんまり分からないので読んでいるとゲンナリしてきます。注解書の解説によると、どうも「ヤハウェが守ってくれるからエルサレムに帰っておいでよ」(第3の幻)、「社会的不正を取り除くよ」(第6の幻)と言ったたことなんだって。そう言われるとそう読めるけど、自分で読んでいてもさっぱり分からない。ともかく、捕囚から帰ってきたエルサレムの状況を前提にしているのは確かっぽいです。また、第5の幻ではどうもゼルバベルさんと大祭司ヨシュアさんをメシアだと思っている模様。ゼカリヤさんも残念でした」とさんざんに批判しているが、本当かどうか確かめるために、読んでみた(8章まで)。
通読して確かに断片的にはところどころ分かる文章もあるが、全体としては分かりにくい。
さて、今日の聖句、3節から読んだらよくわかる。
<ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。>(3:3~5)
大祭司ヨシュアが新しい神の民全体を象徴しているのであろう。

2018 日々の聖句 8月25日㈯
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。(詩51:5)

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

私の黙想:
詩51といえばダビデの懺悔の祈りだ。これぐらいのことはキリスト者なら覚えておいて欲しい。と、偉そうなこと言ってスミマセン。ここでダビデが犯した罪についてのべない。ただと隠しようのないとんでもない罪であったが、ダビデ自身は罪だとは思っていなかったか、世間の目は誤魔化せると思っていたらしい。ところが預言者の目は誤魔化されなかった。そして預言者から指摘されて初めてその罪の大きさに気付き、懺悔した。この詩はその懺悔の祈りである。
罪の大きさは測れない。自分の測りと他人の測り、世間の測りとに大きな差がある。罪の大きさとその懺悔の深刻さとは比例しない。詩51はダビデの罪の懺悔の祈りとして有名である、と言ったがそれは一体どういう意味であろう。罪が特殊だからか、その懺悔が模範的だからであろうか。そういう読み方をしている限り詩51は「私」と関係ない。罪に特殊な物と平凡なものとの差異とはなんだろう。深刻な懺悔とか軽やかな懺悔とがあるのだろうか。罪を犯してそれを懺悔するということは特殊なことだろうか。
詩51をじっくり読んで考えて見よう。

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