ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 5/8

2011-05-17 06:41:47 | ローズンゲン
5月8日(日)
どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。(詩62:9)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。(1ペトロ5:7)
私の黙想
「心を注ぎ出す」。面白い表現である。むしろ「絞り出す」の方が実感がある。東京聖書学院の学生の頃、時々徹夜で「主よ、主よ」と声を出して祈る学生がいた。朝方になると、声がかれ、疲れ果てて寝ていた。その寝顔は幸せそうであった。これぞ「心を絞り出す」こと。

5月9日(月)
主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。(詩103:6)
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(マタイ5:6)
私の黙想
聖書には「虐げられている人」という言葉が多く出てくる。古代社会において「虐げられている人」とはいったいどういう人たちなのだろう。聖書における「虐げられている人」とはどういう人たちのことか調べる必要がある。

5月10日(火)
主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。(イザヤ64:7)
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
私の黙想
初めの一句と最後の一句は素直に受け止めることが出来るが、人間と神との関係について粘土とか陶工というイメージで捉えるユダヤ人(旧約聖書)の感覚には違和感がある。そこには「我と汝」という人格的なものが入り込む余地はない。人間と神との関係はもっと大らかである。

5月11日(水)
見よ、その日が来れば、わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。(アモス8:11-12)
だから、どう聞くべきかに注意しなさい。(ルカ8:18)
私の黙想
神の言葉の欠乏は深刻だ。羅針盤なしで大海を航海するように、方向感覚が失われるであろう。知恵と技術があっても、どこで曲がり、どこで止まればいいのか、わからなくなる。まさに現代科学の申し子、原子力科学のように。今こそ、み言葉が必要である。

5月12日(木)
まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。(列王記上8:39)
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(ロマ8:27)
私の黙想
ただ「ご存じです」だけでは、何の慰めにもならない。その上で、何かをしてくれるのでなければ。「どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください」という祈りの言葉が必要。

5月13日(金)
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。(詩139:9-10)
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。我らは神の中に生き、動き、存在するのです。(使徒言行録17:27-28)
私の黙想
まるでお釈迦様の掌の上の孫悟空状態。これが優れた宗教に共通する「神感覚」か。こちらが神を信じているのではなく、捉えられている意識。逃げられないという感覚。「ヨナ状態」

5月14日(土)
わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。(詩119:109口語訳)
イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
私の黙想
詩人は「わたしのいのち」よりも「あなたのおきて」の方が大切だと言う。私の命よりも大切なものがあるということは、幸せである。しかし、それが金であったり、会社であったりしたらガッカリする。じゃ、何が私にとって命よりも大切なものなのか?

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