ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/5/27~6/2

2018-06-02 14:45:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/5/27~6/2

2018 日々の聖句 5月27日(日)
遠くから主を思い起こし、エルサレムを心に留めよ。(エレミヤ51:50)

どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:18)

私の黙想:
ちょっと気になる翻訳だ。「主を思い起こす」のは遠くからか。主は遠い所に居られるのか。実感としては理解できるが、困難な状況に置かれれば置かれるほどヤハウェを近くに感じる、のではなかろうか。確かに「エルサレムは」遠くから心に留めているのであろう。この距離感は理解できる。
さて、他の翻訳を見ても翻訳には問題がなさそうである。だそういう読め方しか出来ない私自身に問題があるようだ。そこから、私の黙想は始まる。
「遠くから主を思い起こし」というのは、バビロンが滅亡し、多くの同胞が殺されるという悲惨な状況の中でエルサレムから「遠くの地」に逃げるように、追い立てられている状況での言葉である。だとすると、エルサレムを中心とする祖国からの難民、しかもその途上ということである。現実に目の前で祖国が滅ぼされ、未だ見ぬ地へ逃亡する者たちにとって、「私たちの神、ヤハウェはどうなののか」、それは真剣な「気がかり」である。そのとき、預言者は、どんなに遠くに行っても、エルサレムが廃墟となっても、「ヤハウェを思い起こすこと」は出来るし、「エルサレムを思い浮かべることは出来る」と語る。これは難民に対する最大の慰めのメッセージである。
私の個人的な経験としては、一度しか見ていない祖国(エルサレム)を目指して朝鮮半島の山野を逃亡していたとき、主なる神は遠く高きに居られた。その時の経験と重なる。

2018 日々の聖句 5月28日(月)
主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。(列王記下20:5)

その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。(ヨハネ11:2~3)

私の黙想:
ここで、預言者イザヤによって病を「死に至る病」を予告されているのはヒゼキア王である。その時既に、ヒゼキア王は病にかかっていたのかも知れない。それでヒゼキア王は「壁に向かって」必死で祈る。その姿を見て、ヤハウェは心を変えて、病を癒やすと宣言される。かなりドラマティックな情景である。しかし、その後、ヒゼキア王はヤハウェの言葉つまり預言者の言葉に逆らい、不幸な結末となる。
誰でも「死に至る病」にかかれば必死で祈るのであろう。その意味では、私にはそのような必死さはない。神に祈ることはただ一つ、「穏やかな死」である。

2018 日々の聖句 5月29日(火)
イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。(民数記9:18)
シモンの言葉:先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ5:5)
私の黙想:
出エジプトして約束の地カナンに入るまでの40年間イスラエルの民は放浪生活を続けた。その放浪生活の基本の基本。何時移動するのか、何時まで留まるのか、まったくヤハウェ任せであったという。「ノープランの生活」、それは気楽か、不安か。ここが肝腎なポイントである。
あれこれ、考えていても、「出発」という神の言葉が発せられたら、言われるままに出発する。旅の途中で、ここは住みやすいなぁと思っても、神の言葉がなければ留まることが出来ない。
世の中に「転勤族」と呼ばれる人々がいる。ほとんどのサラリーマンがそうかも知れない。牧師だって典型的な「転勤族」である。その生き方は基本的には「ノープラン」である。ノープランだと言ってもすることがないわけではない。転勤してもすべき仕事は同じである。むしろ、フリーターと呼ばれる人こそしっかりと自分自身のプランを持っていて、自分独自の仕事を発見し、実現しなければならない。さて、どちらの方が気楽なのか。

2018 日々の聖句 5月30日(水)
主に造られたものはすべて、主をたたえよ、主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。(詩103:22)

(むしろ、)霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ5:18~19)

私の黙想:
今日の詩の面白さは「全体」と「個」の関係である。理屈を言うなら、かなり長い文章によって「すべて」のものが主を頌えるべきことを述べている。これを述べているのは、多分「私」である。ただ、それだけのことである。しかし、ただそれだけのことが含蓄している構造は素晴らしい。当然「私」は「すべて」に含まれている。しかし、それにも拘わらず、最後に一言を「私」のことを述べる謙虚さが美しい。
口語訳では「統治されるところ」を「まつりごとの下にあるすべての所で」と訳している。「統治」と「まつりごと」は同じことであるが、言葉のニュアンスが違う。岩波訳では「統治」、文語訳だと「政權の下なるすべての處にて」とあり、「政権」となると、かなり固い。フランシスコ会訳では「その支配」、新改訳では「治められるところ」、関根先生は「口語訳と同じ「政(まつりごと)。どの様な訳語を用いても意味は同じであろうが、主語がヤハウェである場合には、「政権」とか「権力者」とか「統治者」とか「政治」という現代という時代によって泥まみれにされている言葉よりも、すこし次元の異なる(ここでは時代が違う)「まつりごと」という言葉の方が親しみを感じ、心から頌える気になる。

2018 日々の聖句 5月31日(木)
わたしは知っています、主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを。(詩140:13)

貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)

私の黙想:
今日の聖句の冒頭の言葉「わたしは知っています」という言葉は非常に強い。ヘブライ語の「知る(ヤーダー)は非常に幅の広い言葉である。有名なところでは、「アダムは妻エヴァを知った」であろう。この「知るはただ単に肉体関係を意味するだけではなく、人間の本質、喜び、愛を知ることを意味している。
そして、ここでは意味の広さと言うより「知る」ということの深さ、強さを示している。「皆さん方はご存じないだろうが、私は知っているのだ」。何を、そんなことは大したことではない。ただ一つ、神の秘密、神がなさろうとしていること、神は必ず貧しい者、乏しい者の味方なのだ。

5月末日、この日を平音に迎え送ることができてとても嬉しいです。

2018 日々の聖句 6月1日(金)
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。(詩57:4)

わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。(1ヨハネ4:14)

私の黙想:
旧約聖書においては「慈しみとまこと(ヘセッド ヴェ エメッド)」を組み合わせて使われる場合が多い。特にこの言葉とアブラハム等先祖との関係はかなり密接である。創世記24:27では「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず」とアブラハムの僕が言っている。また創世記32章では、ヤコブは「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました」と告白している。また死の床では今はエジプトの宰相にまでなっている息子ヨセフにに、彼の手を自分の股間に挟んで、「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。日本的な表現で言うと「金玉の近い」というところか。
詩編ではこの言葉は11回も用いられており、箴言でも2回も散られている。
慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び心の中の板に書き記すがよい。(箴言3:3)
罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る。(箴言14:22)
旧約聖書の世界では、あるべき真の人間関係(神人関係も含む)とは、「ヘセッドとエメッド」であったらしい。これを日本的に考えると「誠」ということか。新撰組の看板になってからは使いにくくなったが、やはり「誠」は日本人の倫理の中核であろう。(相良亨『誠実と日本人』(ペリカン社)。表紙に「『清き心」「正直」「誠と受け継がれてきた日本的な心を和辻哲郎、西田幾多郎まで視野に入れて考察、伝統邸な「誠」をのりこえた新しいモラルを模索する」という。日本的な「誠」に欠けているものは客観性であり、相手への尊敬の念であろう。それで相良さんはこの「誠」に「敬」を付け加える。そうしたら、旧約聖書の「慈しみとまこと」に通じるか。<これも中途半端になったままの私の課題>

2018 日々の聖句 6月2日(土)
あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。(詩25:5)

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ロマ8:25)

私の黙想:
今日の聖句は5節の後半だけであるが、私は前半も含めて考える。口語訳ではこうなっている。「あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます」。これを文語訳で読むと、「我を汝の眞理に導き、我を教え給え。汝は我が救いの神なり。われ終日汝を俟望む」。ほとんど違いはない。
祈祷書の訳が最も好きだ。「真理のうちに私を教え、導いてください。あなたは私の救い、いつの日も、私はあなたを待ち望む」。
今日は私の82歳の誕生日だ。私は特別な思いで迎えている。昨年11月末に白血病と宣言され、医者は白血病で死ぬことはほとんどありません。ただ、肺炎等の感染症が危ないと注意を受けました。その時、私は今年の誕生日を迎えることが出来るか、と勝手に誕生日を目標に定めました。幸い、今年の誕生日を、一応元気に迎えることが出来て感謝です。その意味で、今日の聖句は神さまからのバースデイ・カードだと思っています。

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