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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/1/28~2/3

2018-02-03 10:17:40 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/1/28~2/3

2018 日々の聖句 1月28日(日)
主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩27:14)

あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブ5:11)

私の黙想:
今朝はかなり出遅れたので、字句等については省略する。その代わり、黙想は専ら文語訳に基づいてすることとする。ただし「エホバ」は「主」と読み代える。「主を俟ち望め、雄々しかれ汝のこころを堅うせよ、必ずや主をまちのぞめ」。先ず気になるのは句読点の使い方で、ピリオドが最後だけで全文が句点で切られている。「雄々しかれ汝のこころを堅うせよ」とが句読点で分けられていない。つまり、この句は全体が「主を俟ち望め」という言葉でサンドイッチ構造になっており、その真ん中の部分は一気に読むことが示されている。つまり「雄々しくある」と「心を堅くする」とが一体化している。少々うがった解釈をすると、「雄々しくある」という荒々しさが、「堅くする」によって鎮められている感じである。この内容を「俟ち望む」というメインの命令と組み合わせると、私たちの主の俟ち方が示されている。本当の意味で「俟つ」ということは、「イライラしない」「ウロウロしない」「ジタバタしない」で、ジーっと不動の姿勢を取り続けているということである。

2018 日々の聖句 1月29日(月)
わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。(エゼキエル11:19)

(だから、)キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

私の黙想:
預言者エゼキエルはバビロン捕囚期の末期に活躍した。当然、彼のメッセージは解放および解放後のイスラエルのあり方に関するものである。このことに関連して多くの人々はあまり関心を寄せないが、捕囚から解放されて後ののイスラエルの民は正しくは「ユダヤ民族」と呼ばれる。そして、その民族の形も政治的国家というよりも宗教的共同体である。従って国を統治しているのは国王ではなく、祭司長および祭司集団となる。おそらく、まだ捕囚中の民は将来に向かってどうなるのか、先行き不透明で不安であっただろうと推測される。
従ってここでのエゼキエルのメッセージは民族の新しい在り方に関するものであると理解すべきであろう。今日の聖句の鍵になる言葉は「一つの心」と「新しい霊」である。
それはそうとして、初代教会の人たち、とくにパウロなどは、この言葉を「教会」への約束として理解したようである。
今朝は聖句の周りをぐるぐる回っただけ。聖句そのものには切り込めなかった。

2018 日々の聖句 1月30日(火)
神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまですべてのものが神を畏れ敬いますように。(詩67:8)

あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、(人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、)神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソ3:18~19)

私の黙想:
今日の聖句は祈りの文章である。ところが、これを口語訳で見ると、「神はわれらを祝福されました。地のもろもろのはてにことごとく神を恐れさせてください」で、前半の言葉は叙述文で、我々が既に経験していることに基づいて、地の果てにまで以下のみが祈祷文である。経験的にはこの方が説得力があるが、原文はどうなっているのだろうか。その点で面白いのが直訳が売りの新改訳で「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」。フランシスコ会訳、岩波訳は基本的には新共同訳と同じである。関根先生の訳が面白い。「ヤハウェよ、我らを祝し給え。そうすれば地のすべての果てまでも、ヤハウェを畏れるでしょう」と訳しておられる。口語訳の逆で前の文章が祈祷文で後半はその理由あるいは帰結文になっている。文語訳は関根訳と同じである。「神われらをさきはひ給べし、かくて地のもろもろの極(はて)ことごとく神をおそれん」。
つまり、このように原文を日本語に移す場合にかなり自由度があり、それぞれに根拠がある場合には、自分自身の信仰経験から聖書の言葉を読む必要がある。(註:だから信仰者でなければ聖書を翻訳することができない)
結局、この聖句は自分自身の経験に基づく祈りの言葉である。最も私にピッタリくるのは、やはり文語訳である。

2018 日々の聖句 1月31日(水)
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現してくださった(馬と乗り手を海に投げ込まれた)。(出エジプト15:1)

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(1ヨハネ3:1)

私の黙想:
今日の聖句、肝腎の部分が省かれている。主が現してくださった「威光」の内容とは、エジプト軍の馬も乗り手もすべて紅海の藻屑となったという怖ろしい内容であった。仕方がないといえば、仕方がない。もし、そうでなかったら烏合の衆に過ぎないイスラエルの人々が皆殺しになってしまうだろう。戦争とはそういうものだといえば、確かにそうだろうが、問題は聖書を読む時、こういうことを省いてしまって良いことだけを読めばいいのだろうか。この部分を省いたローズンゲンの編集者の良識を疑う。
ただ「大いなる威光」が現れたということだけならば、毎朝太陽が昇ることだって、雨が降ることだって神の威光の表れである。もう一歩つっこめば、言葉をはばかるが、大災害だって神の威光の表れなんだ。この聖句を読む時、それを忘れてはならない。あれも、これも全部ひっくるめて「主は大いなる威光を現してくださった」と言えるのだろうか。それが問われている。

2018 日々の聖句 2月1日(木)
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。(イザヤ48:21)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(黙示録22:17)

私の黙想:
イスラエルの民にとって、出エジプトの際に先祖たちが経験した様々な出来事が一つの信仰のパターンとして繰り返し繰り返し、語られ、詩として歌われてきた。
だいたい出エジプトの時代は紀元前1250年頃とされている。そして第2イザヤが活躍したのはバビロン捕囚の末期、およそ紀元前550年頃で、その間、約700年の差がある。預言者は700年前の出来事(伝説)を引用している。
日本史にこれを当てはめると、2018年より700年前というと1300年まえ頃ということで、鎌倉時代で、『平家物語』か『徒然草』の時代である。「祇園精舎の鐘が声、諸行無常の響きあり」と歌われた時代ある。確かに共感する面もあるが、時代状況の格差は大きい。そんな昔のことが何か参考になるのだろうか。
そもそもイザヤの時代と現代とだってほとんど共通するものはないだろう。
つまり「乾いた地」であれ、「岩から水」だってその理解は全く異なる。要するに生存の危機における、神の奇跡的救済を信じる信仰である。私たちにそのような「岩から水が湧き出る」信仰があるのだろうか。

2018 日々の聖句 2月2日(金)
人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる。(ヨブ21:22)

皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。(1ペトロ5:5)

私の黙想:
「人間が神に知識を授ける」なんていうことができないことは自明である。そんな「アイデア」そのものがヨブ記にあるということ、そのこと自体がここでの驚きのメッセージである。ヨブ記の凄いところはそういうことをサラッと優しく語ることである。
ここでは、ヨブを訪れた第3の友人ナアマ人ツォファルの低俗な因果応報思想に対してヨブは痛烈に批判する。ツォファルとは誰か。なんだ、ゾバルのことか。こんな場合、人の名前をわざわざ原語に忠実にする必要はないであろう。特に、ヨブ記は文学であり、強いて言えば登場人物は一郎、次郎、三郎でも良いのではないか。
ヨブは友人たち(一般的な人々)の生き方を批判的に語る。ゾバルの因果応報思想とは、神を信じる者にはそれ相応の恵を得ることができるということである。しかし、その本音は神よりも神によるご褒美の方に心は向かっている。彼らは神を口にはするが、その本音は「ほうっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(14~15節)と述べられている。彼らの主張は一言で言えば、神に対しては「敬して遠ざける」である。言い換えると、自分の繁栄のために神を信じている。その根本的思想はは、人間の行為によって神の判断を支配できるという点にある。ヨブはその態度こそ問題だという。今日の聖句はまさにその点を突いている。

2018 日々の聖句 2月3日(土)
神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せます。(詩36:8)

自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブル10:35)

私の黙想:
文語訳では「神よ、汝の仁慈(いつくしみ)はたふときかな、人の子はなんじの翼の蔭に避所を得」となっている。今日の聖句の特徴はツッコミどころがないということだろう。強いて突っ込むとしたら、「翼の陰」を「避け所」と思う、感じる感覚はどこから出て来たのだろうか。普通、体験的に「(鳥の)翼の陰」で憩うということはない。ああ、そうだ。旧約の世界から離れて「私にとって翼の陰とは何か」を考えると、「羽布団」を連想する。一日激しい仕事を終えて、風呂に入り、羽布団に潜り込む。何か安心感が身体を包む。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)。ねぐら(巣)がある幸せ。「神よ、慈しみはいかに貴いことか」と讃美する。

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