ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/02/28~03/05

2016-03-05 14:43:08 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/02/28~03/05

2016 日々の聖句 02月28日(日)
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う恐れるな、わたしはあなたを助ける。(Isa.41:13)

シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去った。(Mk.1:30~31)

私の黙想:
今日の聖句のポイントは「あなたの右の手を取って」のようである。神が私の手を取る。新改訳は「右の手を固く握り」と訳している。口語訳、フランシスコ会訳には「固く」という言葉はない。10節には神の「右の手」が出てくる。10節の神の「右の手」と13節の人間の「右の手」、何か謎めいている。そして11節と12節では、私を苦しめる敵が「無に等しくなる」「無に帰し」ということが述べられている。神の右手と私の右手の間にそれを妨げるものが「無になる」。無くなる。神の右手と私の右手とが完全に一つに成る。一体化する。北側から南へ掘り進んだトンネルと、南から北に掘り進んだトンネルが貫通し一本になる。感激の瞬間、絵になる。あるいは炭鉱に閉じ込められた人たちを救出するためにトンネルが掘られ、遂に炭鉱の内部に通じたときの喜び、あれである。

2016 日々の聖句 02月29日(月)
主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰することのないように。(Jer.10:24)

鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(Heb.12:11)

私の黙想:
「懲らしめてください」という言葉とそれに続く言葉との間に、何か違和感がある。懲らしめられるべき人が、懲らしめる人に「注文する」ことがあるだろうか。それでは「懲らしめ」に成らないではないか。現実にはそこに「弁護士」が現れて「情状酌量の余地がある」とするところであろう。それともう一つ、「無に帰することのないように」とは何を意味するのだろうか。口語訳ではこの部分「怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。
ところで変なことに気が付いた。「懲らしめる」と「懲らす」は同じなのか。口語訳も文語訳も「懲らす」である。広辞苑によると「懲らしめる」は「制裁を加えて懲りるようにさせる」、用例としては「悪人を懲らしめる」。それに対して「懲らす」は「懲りるようにさせる、懲りて再びしないようにする」で、ニュアンスが違う。「懲らす」には必ずしも「制裁」は含まれない。では「懲りる」とはどういうことか。広辞苑によると「ひどいめに会って二度とすまいと思う」。ここには必ずしも「罪」「悪いこと」が含まれない。フランシスコ会訳では「正してください」、新改訳は「懲らしてください」である。ということは、ここでも新共同訳だけが「懲らしめてください」と訳している。原文がどうなっているかわからないが、少なくとも日本語では「懲らしめる」と「懲らす」では違いがある。その違いは「制裁」の有無である。私的には「懲らす」がいいな。座禅の時に、気が散っているときに、作法に則って、警策(きょうさく、警覚策励)で肩を叩くようなことを思い起こす。

2016 日々の聖句 03月01日(火)
雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて。(Ps.31:25)

最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(Mk.13:13)

私の黙想:
「わたしの敵は皆、わたしを嘲り隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き外で会えば避けて通ります」(12節)。この詩人はこういう状況におかれている。「敵」と言っても隣近所の人たちである。戦争状態ではない。要するに「神から呪われた人間」(13節)として町中の嫌われ者だという。もはや「戦闘意欲」も失われ、「命は嘆きのうちに年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ骨は衰えていきます」(11節)。文字通り「生きる屍」状態である。今日の聖句はそういう自分への励ましの言葉。諦めたらそれで終わり。望みは「神のみ」。
ここでも用いられている「待ち望む」という言葉は、聖書独特の表現で「信じる」ということと同じ意味であるようだ。信じるとは待ち望むこと、これで「終わり」ではない。続編がある。

2016 日々の聖句 03月02日(水)
いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。(Isa.52:7)

平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(Eph6:15)

私の黙想:
今日の聖句、実はイザヤ書の中で私が最も好きな言葉です。パウロもロマ10:15で引用している。ここから「平和の福音」(Eph.6:15、Act.10:36)という言葉が生まれたとされる。おそらく「福音」という言葉の源泉の一つであろう。
この句で興味を引く言葉は「あなたの神は王となられた」。人間は「鼻で息をする人間を神とする」。しかし「神は人間の世界に降りてきて王となる」。どういう訳かフランシスコ会訳では「あなたの神が君臨する」と訳している。成る程文語訳では「汝の神はすべ治め給う」と訳している。その方がピッタリなのだろうが、「王となる」の方が迫力がある。言葉には迫力も必要である。良い知らせを告げ回る人を「人」と言わないで「美しい足」というのも、とても印象的である。戦争を告げるものは「軍靴」の響きである。
話は全然変わるが、牧師は「靴」を大切にし、よく磨いておかねばならない。上等である必要はないが、汚れたままの靴で平気で信徒の家を訪問することは失礼である。福音を伝える者の靴は「美しい」と言われるようにならねばならない(と、思う)。

2016 日々の聖句 03月03日(木)
わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの。(Isa.63:1)

一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。(Rom.5:18)

私の黙想:
今日の聖句はよく分からない。これは問いに対する答えで、問いは、「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き勢い余って身を倒しているのは」で、これが謎っぽい。エドムとはイスラエルの宿敵、ボツラとはエドムの町の一つ、そこから「赤い衣をまとった者」とは誰か。この「赤い衣」とは酒樽の中のぶどう酒の色(3節)らしいが、ここでは諸国民を踏み殺して染まった血の色(6節)、どうやらこの人は一人でイスラエルの宿敵たちを滅ぼしたお方らしい。わからないのは「その装いは威光に輝き勢い余って身を倒している」ということ。その装いが威光に輝いている」のはいいが、そんなところでひっくり返ってしまったらお笑いではないか。「勢い余って身を倒している」という言葉はどこから来ているのだろうか。口語訳にはそんな言葉はない。フランシスコ会訳では「胸を張って来る」と堂々とした凱旋将軍のようである。新改訳は「大いなる力を持って」、文語訳は「大いなる能力をもて厳めしく歩み来たる」、でどこにも「勢い余って身を倒している」なんていう言葉はない。不謹慎にも、私はイエスがエルサレム入城の際に、小さなロバがイエスの体重にたえかねて、転んだというような滑稽な情景を想像する。
米田豊先生はこの場面を以下のように描いている。「血に染まった(緋衣)をまとって来る者とはそこに(敵地)復仇して凱旋者のごとく来る者で、彼は敵に対しては審判者であるが、神の民に対しては「大いに救いを施す我」であると自己を示している」と言い、「主が終わりにすべての敵を滅ぼして選民を救い給う預言である」という。

2016 日々の聖句 03月04日(金)
あなたは人の心をご存じです。(1King.8:39)

わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。(2Thes.2:16~17)

私の黙想:
今日の聖句、前後に結構長い文章から、これだけが取り出されている。明らかに編集者は前後の部分をカットして、この味も素っ気も無い聖句だけを突きつけている。それでは、私も文脈を考えないで、この聖句だけをそれとして観が褸。その場合、この「人」のは私なのか、普遍的な人間全般を意味するのか。もちろん神は私を含めてすべての人間の「心」をご存知である。考えてみると恐ろしいことだ。私の心を隅から隅まで全部ご存知だということで耐えられるか。どこかで神は私など「その他大勢の中の一人」として見落としているだろうと思っている。ということで安心している部分がある。神の前では「目立たないこと」が好いことだ、と思っている私がここに居る。
神が天から地上を見て面白がっておられるのではないだろうか。アメリカの大統領選挙の状態、日本の国会での議論、お互いに激しくやり合っているのをご覧になって、お互いに相手が何を考えているのか、相手の「心」が読めない者同志が、ああでもない、こうでもないとチグハグな議論しているのをご覧になって、あいての「心」が読めないとはこういうことかと、笑っておられるのかも知れない。こんな「生意気なこと」を考えている「私の心」も神はご存知なのだ。ああ、恥ずかしい。

2016 日々の聖句 03月05日(土)
わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り(うつろに)、空しく、力を使い果たしたと。しかし、わたしに報いてくださるのもわたしの神である。(Isa.49:4)

イエスの言葉:神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いき、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土からまず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(Mark4:26~28)

私の黙想:
無駄な努力、負けるとわかっていても闘わなければならない戦い、人生はそんなことの連続だ、と思う。むしろ、そうでないことの方が稀である。報われない人生、それが普通である。そんなことを考えるとイージーゴーイングになる。人生がそんなものだと考えたら、ニヒリストに成るし、成らざるを得ないであろう。ここで終われば、「ハイ、それまでよ〜」。ここに「しかし」がある。この「しかし」によって人生を見る見方が変わる。この「しかし」があるからニヒリストにならない。「しかし、わたしに報いてくださるのもわたしの神である」。ここでの「私の神」という言葉は強い。あなたの神でもなければ、彼女の神でもない。「私の神」である。「私だけの神」といっても強調し過ぎにはならないであろう。

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