ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/3/18~3/24

2018-03-25 09:17:26 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/3/18~3/24

2018 日々の聖句 3月18日(日)
主よ、慈しみをわたしたちに示し、わたしたちをお救いください。(詩85:8)

恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。(ヨハネ1:17)

私の黙想:
今日の聖句、どこから何を黙想すべきか。単純であるが、私たちの祈り完全形である。他の翻訳もほとんど違いはない。ただ、岩波訳が最も丁寧に訳している。
「われらにお見せ下さい、ヤハウェ、あなたの恵を。そしてあなたの救いをわれらにお与えください」。
私が「慈しみ」という言葉を覚えたのは、日曜学校で「慈しみ深き」という讃美歌をうたた時である。

慈しみ深き 友なるイエスは うれいも罪も ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて、重荷のすべてを み手にゆだねよ

私にとって「慈しみ」とはこの讃美歌である。チョット、無理があるかな?
その意味では岩波訳、新改訳、関根訳の「恵」が分かりやすい。文語訳は「憐れみ」である。

2018 日々の聖句 3月19日(月)
(国々の空しい神々の中に雨を降らしうるものがあるでしょうか。天が雨を与えるでしょうか。我々の神、主よ。それをなしうるのはあなただけではありませんか。)我々はあなたを待ち望みます。あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。(エレミヤ14:22)

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(1ヨハネ5:14)

私の黙想:
今日の聖句は括弧の部分を省いた部分。括弧の部分を省くと「あなた(ヤハウェ)」のいみが不鮮明になってしまう。エレミヤはここで、あくまでも「国々の空しい神々」と「私たちのヤハウェ」とを対比して語っている。何が特徴か「天を降らせる」というただ一点だけを「我々の神」の特徴として語る。他国の「空しい神々」はそれができない。「天を降らせるか、降らせないか」で、エレミヤは一体何を言おうとしているのだろうか。
「我々の神」とは、日々の生活の中での神、特別なときにだけ働く特殊な神ではなく、「普段着で働く神」だという。つまり端的に言うならば、「我々の神、ヤハウェ」は、戦争において勝利をもたらす「勝利の女神」ではない。特別な災害をもたらす「怒りの神」ではない。まさに日常性における神。だからこそ、私たちは大騒ぎすることなく、静かに、神の働きを信頼し、待つのだ。

2018 日々の聖句 3月20日(火)
(歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。)主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。(イザヤ52:9)

(事実、)あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

私の黙想:
パウロがロマ10:15 「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と美しい言葉で引用しているのはイザヤ52:7節である。この言葉により、宣教師たちは「靴」の手入れにとても気を使う。牧師も家庭訪問をする際に「汚い靴」は御法度である。
今日の聖句はその言葉によって始まる「詩」(7~12節)の一部である。山々をめぐり「良いこと」を伝える伝令の言葉は響く。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ」と。日々の聖句ではこの部分は引用されていない。
その頃、エルサレムはまさに廃墟となっていた。
ここで「エルサレムを贖われた」という。町と神殿、これが完全の異教徒たちによって占拠され、そこにあった祭具は見る影もなく汚されていた。イスラエルの民はバビロンから解放され、そこに戻ってくる。彼らはそこを彼らの力によって(武力的に)取り戻すのではない。ここで「贖われた」という単語が用いられているのは興味深い。人々の罪を贖う場所である神殿はヤハウェの手によって贖われる。

2018 日々の聖句 3月21日(水)
神の言葉:お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記3:19)

アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(1コリント15:22)

私の黙想:
世界創造神話の中で、唯一人間についての厳しい現実を述べた言葉だ。ここで読者は「ハッ」とする。いや、ハッとしなければならない。こういう経過を経て「現在の現実」があるのだ。これが人間が人間について考え始めるスタートである。
人間は、ここのところを忘れようとする。無色透明中立というところから人間がスタートしたのではない。始めからマイナス・スタートである。しかし、このマイナスをプラスに転換する力を神は与えてくださった。

2018 日々の聖句 3月22日(木)
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。(イザヤ50:5)

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。(ヨハネ12:26)

私の黙想:
今日の聖句は第3の下僕の詩(50:4~9)の中の一節だ。ここでの預言者はバビロンから解放された後の祖国帰還関して、「帰還反対」者との対決の場面である。その意味では非常に珍しい場面である。
祖国帰還には多くの困難が予想された。それよりはむしろバビロンにおいて生活の基盤を確保している人たちは帰還に反対した。捕囚期間70年というのは一人の人間の生涯と比較するならば、いかにも長い。おそらく第2イザヤの時代では3世、4世の時代であったであろう。彼らは生まれたときからバビロンの住民であり、バビロンの捕囚民への政策はそれ程厳しいものではなかった。その意味では、帰還組は「保守派」であり「伝統固執派」であった。おそらく彼らの方が少数者だったのではなかろうか。ここで帰還した人たちよりも残留組の方が多かったことを忘れてはならない。彼らがいわゆる「ディアスポラ」のユダヤ人である。
預言者は朝ごとに神の御言葉を聞き、その御言葉に忠実に、一歩も退かなかった。この「退く」は帰還反対者たちへの妥協を意味した。

2018 日々の聖句 3月23日(金)
(主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、)主の戒めは清らかで、目に光を与える。(詩19:9)

イエスの言葉:(命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。)わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

私の黙想:
今日の聖句は3月15日と同じ詩19:9である。ただし、15日では前半の括弧の中が選ばれ、ここでは後半が選ればれている。基本的には前半と後半とは同じ趣旨であろう。
詩19は私の好きな詩編で、この詩のタイトルを「神の言葉賛歌」としている。神に言葉についてのいろいろな表現が用いられている。「命令」も「戒め」も、共に神の言葉であり、「よろこびを与える」のも、「目に光を与える」のも要するに、神の言葉が人間が人間として生きる「命の輝き」の源である。

2018 日々の聖句 3月24日(土)
主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。(歴代誌下16:9)

(女は)イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(ルカ7:37~38)

私の黙想:
イスラエル分裂後の世界を背景にしている。今日の聖句は面白い。その頃イスラエルの人々の「常識」として、世界には、イスラエルの民以外のところにも、ヤハウェが「御自分と心を一つにする者」が存在する可能性を信じていたということを示している。もはやヤハウェはイスラエルの独占的神ではなくなっている。従って、イスラエルの王と言えども、ヤハウェに対する態度によっては捨てられる。
イスラエル史において、こういう思想が生まれたと言うことは驚くべきことである。

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