ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

この季節になると考えること

2011-10-20 08:27:37 | ときのまにまに
私的書簡 説教のテキストについて

毎年、この季節になると私を悩ませる問題があります。悩ませるというより、美味しそうなメニューを見て「何を食べようか」という種類の悩みです。「この料理は前に食べたことがある」とか、「これはビールを飲みたくなるなぁ」とか、ワクワクしながら考える課題です。

教会暦によりますと、12月(ないしは11月の最後の日曜日)から新しい年度が始まります。ご承知のように日本聖公会では3年周期の日課表を採用しており、それぞれの主日に読まれるべき旧約聖書、使徒書、福音書のテキストが当てはめられています。私の場合は1年を通じて同じ種類のテキストから説教をしてきましたので、9年間で1巡するわけですが、どうしても福音書を選ぶ年が多くて、一通りするのに大体12年から15年はかかります。もう既に一通りは説教に取り上げてきました(例外的に飛ばしているテキストもある)。

昨年は夏頃からもうそろそろ私も礼拝奉仕が出来る残りの年数を数え始めました。その段階で、もし主のお許しがあれば、あと3年が限界かなと考えて、残りの3年を詩編からの説教にしようと考えました。今年も教会暦による最後の主日、降臨節前主日まで残る主日が5指に入るようになり、ともかく、この1年詩編からの説教を貫けそうでホッとしています。実際に1年を通じて詩編をテキストにして説教してきて、想像以上に大変でまるで未知の道を進むような感じでした。毎週、この詩編からどんな説教が出来るのかと、もだえて来ました。それだけに、とてもスリリングで、旧約聖書とユダヤ民族史についても深く学ぶことが出来、霊的にも「恵まれ」ました。

来年度続けて詩編からの説教を続ける積もりで準備を進めてきましたが、改めて準備をする中でいろいろ反省することもあり、とくに詩編からの説教ということになると教会暦の季節感が希薄になり、また十字架とか復活というような福音特有の課題からも遠ざかるような気がします。一応詩編から説教をする場合に、いわゆる伝統的な「予型論的解釈」をさけ、イエスが詩編をどう読んだのかという視点に立って詩編そのものを味わうことを目標といたしました。1年の経験の中ではこの視点は正しかったと思っています。しかし問題がない訳ではありません。この視点から詩編を読むと、聞こえてくるのは書斎、あるいは静かな山野での「イエスの声」で、「巷で生きておられるイエス」の姿から遠ざかってしまいます。

というようなことを反省し、やはり福音の原点は福音書にあり、説教の源泉は福音書の中に描かれているイエスであることを覚え、最後の2年間は福音書を取り上げようと思うようになりました。

思い返してみますと、私が定年を迎え九州教区で礼拝奉仕を始めたのが2007年5月で、その年はC年の旧約聖書のテキストを取り上げていました。それで最初の年は旧約聖書の後半で、その次の年(A年)はマタイ福音書、続いてB年(2008年11月~2009年11月)は使徒書、次のC年はルカ福音書、次のA年は詩編を取り上げて今日に至っています。

それで次年度はB年の福音書、マルコ福音書を取り上げたいと思います。私が最後に説教のテキストとしてマルコ福音書を取り上げたのが6~7年前になります。この間、いくつかの貴重な資料も出版され、私自身の聖書理解もかなり進みました。今度も新鮮な気持ちでマルコ福音書と取り組みたいと思っています。

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