今日のローズンゲン 8月7日(日)
「主よ、あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」(列王下19:15)
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方、あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」(黙示録4:11)
私の黙想
神を天地万物の創造者だと認識したとたん、もはや「民族神」という観念は捨てなければならない。それに一寸遅れて「選民思想」からも脱却する。ユダヤ民族は昔も今も矛盾をはらんでいる。神は殆ど強制的にユダヤ人から「選民思想」」を奪う。
今日のローズンゲン 8月8日(月)
主の言葉:わたしはわが家のために見張りを置く。(ゼカリア9:8)
イエスの祈り:わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)
私の黙想
凶暴で強大な大国のエゴイズムによって翻弄される小国を神は見張りを置いて守る。ユダヤは世界の歴史の中で明らかに弱小国。ユダヤが大国意識(誤った選民思想、「八紘一宇」)を抱いたとき神は懲らしめる。小国は小国に徹しようではないか。そこから真の平和思想が生まれる。
今日のローズンゲン 8月9日(火)
馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。(詩33:17-18)
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5:5)
私の黙想 ここでは軍事力と信仰とが対比されている。前者が否定され、後者が強調される。人間は原爆を落とす際にも十字を切ると言う。軍事力を強化するために信仰が利用される。そういう信仰(宗教)は「くそ食らえ」である。
今日のローズンゲン 8月10日(水)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。(イザヤ55:1)
キリストの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
私の黙想
「喉が渇けば水を飲め。飢えている者は食物を得よ」。これは人間としての基本的な要求であり、当たり前の生活である。その「当たり前さ」が「銀」が介入することによって妨げられている。当たり前のことが当たり前のこととして通じる社会が理想社会である。
今日のローズンゲン8月11日(木)
サウルはダビデに言った。「自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。」(サムエル上24:20)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ12:21)
私の黙想
敵(サウル自身)を倒すチャンスがあったのに、それを実行しなかったダビデの態度に対するサウルの言葉。ダビデはサウルを敵とは思っていないのに、サウルはダビデを敵だと思っている。人間は狂ってくると敵と味方とが区別できなくなってくる。
今日のローズンゲン 8月12日(金)
モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト3:6)
イエスは弟子たちに言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(マタイ17:7-8)
私の黙想
これがモーセとヤハウェとの初めての出会い。顔を覆うとは人間が神に出会うときの正しい所作。小学生の頃、布で覆われた御真影という天皇の写真があり重要な行事の際には蔽いが取り除かれた。私たちはそれを見ないように顔を伏せさせられた。見たら死ぬと脅された。
今日のローズンゲン 8月13日(土)
自分の神を知る民は確固として行動する。(ダニエル11:32)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2テモテ1:7)
私の黙想:
重要なことは「確信」であり、確信の出所。確信とは自己の最深奥から出てくる行動の原理であるが、不思議なことにそれは「自己」から出てくるものではない。まぁ、その出所を「神」と表現しておく。あまり「確信」はないが、それ程大きな間違いでもないであろう。
「主よ、あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」(列王下19:15)
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方、あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」(黙示録4:11)
私の黙想
神を天地万物の創造者だと認識したとたん、もはや「民族神」という観念は捨てなければならない。それに一寸遅れて「選民思想」からも脱却する。ユダヤ民族は昔も今も矛盾をはらんでいる。神は殆ど強制的にユダヤ人から「選民思想」」を奪う。
今日のローズンゲン 8月8日(月)
主の言葉:わたしはわが家のために見張りを置く。(ゼカリア9:8)
イエスの祈り:わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)
私の黙想
凶暴で強大な大国のエゴイズムによって翻弄される小国を神は見張りを置いて守る。ユダヤは世界の歴史の中で明らかに弱小国。ユダヤが大国意識(誤った選民思想、「八紘一宇」)を抱いたとき神は懲らしめる。小国は小国に徹しようではないか。そこから真の平和思想が生まれる。
今日のローズンゲン 8月9日(火)
馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。(詩33:17-18)
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5:5)
私の黙想 ここでは軍事力と信仰とが対比されている。前者が否定され、後者が強調される。人間は原爆を落とす際にも十字を切ると言う。軍事力を強化するために信仰が利用される。そういう信仰(宗教)は「くそ食らえ」である。
今日のローズンゲン 8月10日(水)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。(イザヤ55:1)
キリストの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
私の黙想
「喉が渇けば水を飲め。飢えている者は食物を得よ」。これは人間としての基本的な要求であり、当たり前の生活である。その「当たり前さ」が「銀」が介入することによって妨げられている。当たり前のことが当たり前のこととして通じる社会が理想社会である。
今日のローズンゲン8月11日(木)
サウルはダビデに言った。「自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。」(サムエル上24:20)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ12:21)
私の黙想
敵(サウル自身)を倒すチャンスがあったのに、それを実行しなかったダビデの態度に対するサウルの言葉。ダビデはサウルを敵とは思っていないのに、サウルはダビデを敵だと思っている。人間は狂ってくると敵と味方とが区別できなくなってくる。
今日のローズンゲン 8月12日(金)
モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト3:6)
イエスは弟子たちに言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(マタイ17:7-8)
私の黙想
これがモーセとヤハウェとの初めての出会い。顔を覆うとは人間が神に出会うときの正しい所作。小学生の頃、布で覆われた御真影という天皇の写真があり重要な行事の際には蔽いが取り除かれた。私たちはそれを見ないように顔を伏せさせられた。見たら死ぬと脅された。
今日のローズンゲン 8月13日(土)
自分の神を知る民は確固として行動する。(ダニエル11:32)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2テモテ1:7)
私の黙想:
重要なことは「確信」であり、確信の出所。確信とは自己の最深奥から出てくる行動の原理であるが、不思議なことにそれは「自己」から出てくるものではない。まぁ、その出所を「神」と表現しておく。あまり「確信」はないが、それ程大きな間違いでもないであろう。