ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/07/02~07/08

2017-07-08 14:08:41 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/07/02~07/08

2017 日々の聖句 7月2日(日)
あなたは隣人を虐げてはならない。(レビ19:13)

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。(フィリピ3:3)

私の黙想:
「虐げる」、要するにいじめること。いじめに対する禁止。そんなこと聖書で神の律法として言われなくても当然のことであろう。ところが、昔かも今も、大人も子どもも、「いじめ」はある。「可愛がる」という名前の「いじめ」さえあるし、「訓練する」というなのいじめもある。いじめは開けっぴろげの場合もあるし、陰湿ないじめもある。パワハラもいじめである。いじめとは何か。今さら言われなくても分かっているはずだ。それでもいじめはなくならない。いじめはいじめる方にとっては楽しいのだ。
レビ記では何がいじめなのかはっきりと明文化している。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。レビ記では一つ一つの禁止命令に対して、最後に「あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」という言葉が繰り返される。いじめの最初は「強奪」、第2は「賃金の遅配」、第3と第4は障害者に対する卑怯な振る舞い。要するに、相手の弱みに対する無配慮である。はっきりしている。これがいじめである。

2017 日々の聖句 7月3日(月)
エレミヤの言葉:主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。(エレミヤ20:7)

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。(使徒言行録4:20)

私の黙想:
今日の聖句は、6月25日の主日の旧約聖書の断想で取り上げられているところで、そこで詳細に論じたので、ここでは繰り返さない。http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/d0543b43f89b33c5221bcdc95bac0f82 
要するに、預言者エレミヤとヤハウェとの内的な戦い。結果は明らかである。預言者は、自分が語りたいことを語るのではない。むしろ語りたくない、聞きたくない言葉を、神から押しつけられて語る。私たちの説教がそういう説教になっているのか。それを語ることによって、社会から、あるいは教会から、あるいは自分自身の中で戦いがあるのか。心地よい言葉しか語れていないのではないか。「語る」ことによって日常の糧を得ている。深く反省する。しかし、ホンネを言うと、語っても語っても、「聴く耳がない」ことを嘆きたくなる。

2017 日々の聖句 7月4日(火)
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。(申命記32:7)

イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(ルカ18:16)

私の黙想:
「あなたの父」「長老」とは私のことだと、気が付く。私は私が経験したことを語れるが、それが日本史においてどういう意味と位置づけを持つのかということになると、専門家に聞くしかない。ところが、もちろん真面目な学者もいるが、ほとんどが「色眼鏡付きの解釈」が多い。日本人は果たして日本の歴史に誇りを持てるのか。巷で闊歩している「歴史」はほとんどすべて怪しい。
とすると、私が語れることは、私の両親たちは「脚色された歴史観」に基づき、自分たちの人生を決定したのだ、ということである。「過去」への問い方が問われている。

2017 日々の聖句 7月5日(水)
塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。(創世記18:27)

ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)

私の黙想:
甥のロトの一家が住むソドムの町の救済のために必死になって祈るアブラハムの姿勢。アブラハムはヤハウェの前で決して、「塵あくたにすぎない」存在ではない。むしろ、ヤハウェはアブラハムについて「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」(17~18)とまでいわれている。だからこそ、アブラハムは大胆にもこのような祈りをすることが出来た。基本的には、何かを願う祈りというものはこういう態度でなければならないと思う。ときには祈りは格闘技のような場面もある(創世記32:25)。しかし、それはむしろ例外中の例外であって、祈りは基本的には謙遜さが要求される。ヤボクの渡しの場面でも、ヤコブは格闘する前にヤハウェにこのよう祈っている。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません」(創世記32:10~12)。
私は祈りには2種類あると思っている。一つは「願うこと」、もう一つは「交わること」。これらを混同してはならない。後者には言葉は不要である。ただ座って、黙考すればよい。しかし、前者の場合には、神の意志の変更を求めるのであるから、謙遜でなければならない。ある場合には、「あなたの言葉」によってお願いするのだという姿勢は、神に対してある意味で傲慢である。だからこそ、徹底的に、奴隷のような姿勢でお願いしなければならない。

2017 日々の聖句 7月6日(木)
今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。(イザヤ43:13)

主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らされます。(ルカ1:51)

私の黙想:
今日の聖句は、前節の最後の「私は神」につながって一つの文章になっている。口語訳はそうなっている。ここの文章のつながりと、訳し方は難しいらしい。それぞれいろいろ工夫をしている。こういう場合に一番スムーズでないのが原文に近いのであろう。問題は「わたしこそ主」の訳し方。フランシスコ会訳、岩波訳は「わたしこそそれだ」、新改訳は「私は神だ」。新改訳での「主」と「神」の訳し分けがユニークである。
つまり、神は神自身において「神」である。その神が私たちとの関係においては「主」と呼ばれる。これは、いわば神の機能である。この神においてのこの2文法は難しい。ヘブライ語ではそれを「エル」と「ヤハウェ」で使い分けている。ところがそれがギリシャ語の世界では両方とも「セオス」である。その点、日本語では「神」と「主」で使い分ける。ところが問題は「神」である。それ自体としての神について人間は認識不能である。認識できるのは、その神が「主」として姿を現したときのみである。ああ、ややこしい。イザヤ書43章ではそのややこしいことを論じている。例えば、14節の「イスラエルの聖なる神」をどう訳すか、口語訳では不用意に「神」というような言葉を使っていない。「イスラエルの聖者」である。これもこれとして問題であろう。岩波訳では「イスラエルの聖なる方」フランシスコ会訳では「イスラエルの聖なる者」。それぞれ苦労をしている。例えば、それを日本語で「日本の聖なる者」と言ったらどういう意味になるのだろうか。西郷隆盛あたりを想像するのではないだろうか。もう少し意地悪をすれば天皇が「日本の聖者」か。日本には、八百万の神々がおられる。さぁ、それをそう訳する。

2017 日々の聖句 7月7日(金)
人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。(詩62:10)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

私の黙想:
今日の聖句、旧約と新約との関係は、「人の子」だけで、しかも意味は全く異なる。
旧約の「人の子」は人間のこと。ここにある「共に」とは、どういう意味であろう。全人類を秤に掛けても空気より軽い、という意味か。口語訳を見ると、「低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い」。ここでの「共に」は2種類の人間をそれぞれ秤に掛けてもそれぞれ「息よりも軽い』、そこには差がない、ということが強調されているように思う。
さて、口語訳の「低い人」「高い人」との区別は何を根拠にしているのだろうか。それとも、新共同訳の方が二つをごちゃ混ぜにしたのか。これはかなり重要な問題だ。フランシスコ会訳、新改訳、文語訳、関根訳は口語訳と同じ。ただ、岩波訳はもっと丁寧に訳している。「息のみだ、人の子らは。偽りだ、人の子らは。秤に載ると彼らは上がる。いっしょになっても息より高く。
さて、困った。どちらに軍配を揚げるべきか。意味的には「低い人」と「高い人」とを区別した方が面白い(=説教になる)。原文では「ベネー アダム」と「ベネー イーシュ」に使い分けられているが、単語の意味はほとんど同じだ。強いてい訳せば「イーシュ」は「男」で「アダム」は人間(創世記2:23)。強引に訳せば「人間は空しい、男は騙す」。ただ、どこにも「高い」「低い」という意味は感じられない。ということで、今日の私の黙想は終わり。

2017 日々の聖句 7月8日(土)
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。(詩118:24)

父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:22~24)

私の黙想:
今日の聖句、何か落ち着きが悪い。ヤハウェは昨日も今日も、永遠に働いておられる。口語訳では、「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう」となっており、これなら落ち着く。安息日のことを言っているのであろう。関根訳では「ヤハウェの業を果たされた日」でこれも天地創造を果たされた後の安息を意味していると解したら、口語訳とほぼ同じ意味になる。岩波訳は面白い「今日はヤハウェが作った日」とし、解説で「ヤハウェが『不思議』をなしたからであろう。特定の祭日(例えば仮庵祭)を考える人もある」と述べている。つまり、新共同訳を一概に変な訳だというわけにも行かない。ただ、単純に「御業の日」としたのでは、単純な直訳すぎる。安息日を「御業の日」とするわけにもいかない。とにかく詩118は「感謝の詩」であり、その感謝は敵から守られたという乙らしい。つまり「戦勝記念日」のようなものであろう。
昔、日本では、戦争に勝つと「花電車」が市中を走ったものである。

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