ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

目的格が欠けている「待つ」とは、希望である

2008-12-18 20:02:53 | ときのまにまに
12月12日付のブログで、ベケットの戯曲『「ゴドーを待ちながら』が提起している問題の結びとして、「目的格のない『待つ』は成り立つのか」ということを考えた。その際、「何かを」待つのではない、ただ「待つ」という在り方、目的格のない待ち方が成り立つのかどうかという瀬戸際に、キリスト教信仰は立っている。言い替えると目的格が限りなく虚無に近づいてもなお「待つ」という姿勢を続けているところに現代のキリスト教信仰は立っている。具体的に言うと、再臨信仰の内容が限りなく無意味化している状況において、なおキリスト教信仰は有意義であるのか、という問題である。
そんなことを考え続けていたとき、「天啓」のように閃いたことがあるので、一応書きとめておく。それは、目的格がない「待つ」という姿勢こそ、「希望の本質」にほかならない、ということである。

ギリシア神話に「パンドラの箱」という物語がある。有名な物語であるので、あらすじは省略する。もし、このギリシャ神話の詳細を知りたい方は、いろいろ資料は手に入るであろうが、最も良くできた現代語訳は、阿刀田高の『ギリシア神話を知っていますか』(新潮社)に収められている「パンドラの壺」を参照するのが最善である。
要するに、決して開けてはならないと言われていた「箱」を神の贈り物という名の美しい女性パンドラが禁を犯して開けてしまったという物語である。その箱の中には、ありとあらゆる災難・苦悩が詰まっており、開けたとたんにそれらが一挙に飛び出して、世界中に広まってしまった。その時、慌てて蓋をしたが間に合わず、辛うじて一つだけが箱の中に残った。それが「希望」であると語られてきた。従って、人間は災いと苦悩に満ちた世界でも、「希望」だけが残され、生きていける、と教えられてきた。しかし、この物語では、どうも可笑しい。箱の中はすべて、災いと苦悩なのに、なぜ「希望」が残っていたのか。あるいは、残された「希望」は箱の中から出ていないのであるから、それを人間が持っているはずがない。
しかし、実はこの時残されていたのは「希望」ではなく、「未来を全て分かってしまう災い」である。「未来をすべてわかってしまう」ということは、実は人間にとって最後の「災い」である。逆に、それが「わからない」ということが希望である。

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