ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 1/16

2011-01-25 06:56:42 | ローズンゲン
1月16日(日)
あなたたちの神、主を試してはならない。(申命記6:16)
神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)
私の黙想
聖書の神はかなり面子に拘るようだ。神に対する人間の態度は信じるが信じないか、従うか逆らうか。そこで「試す」とは信じつつ疑う、従いつつ逆らうこと。考えてみると、私は常に疑と信の入り交じった「信なき我」。これは「神を試す」ことになっているのだろうか。深く反省。

1月17日(月)
エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」(列王上18:21)
イエスは言われた。「行って持ち物を売り払い、それから、わたしに従いなさい。」(マタイ19:21)
私の黙想
この「どっちつかず」ということの内容が問題。アドナイが神なのか、バアルが神なのか。これの違いは明白。ここには「どっちつかず」はない。問題はどういう生き方をするのが従うことになるのか。ここには多様性がある。

1月18日(火)
わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与えてください。(詩86:16)
イエスは言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20)
私の黙想
ここで祈っているダビデは弱者の代表である。ここで求めている「力」とは敵と戦う力ではない。耐え忍ぶ力をダビデは求めている。

1月19日(水)
わたしの救いと栄えは神にかかっている。(詩62:8)
神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 (ロマ6:23)
私の黙想
私と神との関係(=和解)が「私の救い」に依存している。言い換えると「私」という個が自分自身の人生を満足しているのかどうかということが、普遍的な神との関係に関わっている。考えてみると大変なことだ。

1月20日(木)
造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。(箴言14:31)
イエスは青年に言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」(マタイ19:21)
私の黙想
神との関係が人倫関係を規定している。これは論理ではなく事実である。この事実を論理化することは非常に難しい。それを新人関係を人倫関係に転換する「機能」が人間の内部にあると思われる。不思議だ。

1月21日(金)
国の民は皆、勇気を出せ。働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる。(ハガイ2:4)
シモンの言葉:先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。(ルカ5:5)
私の黙想
喜んで従っているのだからいいものの、神は人使いが厳しい。

1月22日(土)
主は正義を愛される。(詩37:28)
すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)
私の黙想
「主は正義を愛される」。その逆も真。「主は不正義を憎まれる」。主に愛されようと思ったら、主に助けて貰いたいと思ったら、正義を貫くほかはない。主が愛される正義とは何か。

最新の画像もっと見る