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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/07/19~07/25

2015-07-25 06:45:58 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/07/19~07/25

2015日々の聖句 07月19日(日)
主が民を祝福して平和をお与えになるように。(詩29:11)
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ロマ5:1)
私の黙想:
口語訳は「平安をもってその民を祝福されるであろう」と訳している。要するに、今日の言葉は出会った時、あるいは分かれるときの挨拶の言葉の原型である。復活のイエスが弟子たちの前に現れて「あなた方に平和があるように」(ルカ24:36)と挨拶されたように。英語の「God Bless You」あるいは「Good-by」、ユダヤでの「シャローム」、日本語の「こんにちは」。聖餐式での司式司祭が「主の平和が皆さんとともに」声をかけ、会衆が「また、あなたとともに」と応答し、続けて司式司祭が「平和の挨拶を交わしましょう」と呼びかけ、会衆が相互に「主の平和」と唱えて挨拶を交わす場面があるが、今日の聖句はそれである。
聖餐式での重要な場面である。ちょっと、余談になるが、あの場面で司祭が会衆席に降りてきて、握手をして回ったり、それにつられて会衆がにこやかな顔で歩きまわって挨拶をしまくる風景は、私は嫌いだ。礼拝はあくまでも「神と私」との「出会いと挨拶」で、それに集中したい。古い祈祷書ではそのような野暮な場面はなかった。会衆の相互の挨拶は、礼拝後にゆっくり時間をかけてしたらいいではないか。と、まぁ私は個人的に思う。

2015日々の聖句 07月20日(月)
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐわれる。(イザヤ25:8)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださいます。(2コリント1:3~4)
私の黙想:
泣いている人にそっとハンカチを差し出すシーンを思い起こす。「涙を拭う」というより、その方が差し出す人の「情」を感じる。「涙を拭う」という言い方には「拭う者」と「拭われる者」との間には「情」というより上下関係が感じられるからであろう。ひねくれ者の私には、主なる神が「涙を拭う」ぐらいならば、涙を流さないようにして下さいと言いたくなる。後で慰めて下さるくらいならば、苦難に合わせないで下さい。
多分、これが典型的な日本人が願望する神との関係であろう。私の中にもそういう願望がある。

2015日々の聖句 07月21日(火)
主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。(サムエル上26:23)
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。「マタイ5:10)
私の黙想:
3000人の精鋭を率いてダビデを探索するサウル王、ダビデはサウル王殺害の絶好のチャンスがあったが、サウル王を殺害したいと願う部下の申し出を許さず、証拠品だけを手にして、サウル王の手から逃れる。今日の聖句は、その後、ダビデが王に向かって述べた言葉。ここでのダビデの正義とは、この言葉に続く次の言葉に示されている。「今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした」。つまり、ダビデは「主が油を注がれた方」に対する敬意と尊重である。たとえ、神に逆らい、神が油注がれたダビデを殺害しとうとしたとしても、サウル王も、一旦は神に「油注がれた者」である。だから、自らの手をかけない。これがダビデの正義である。この姿勢がロマ書13:1~7へとつながる。

2015日々の聖句 07月22日(水)
わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。(エレミヤ30:19)
イエスの言葉:天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31~32)
私の黙想:
今日の聖句を読んだ時、私の頭に浮かんだことは民族の繁栄と人口問題。現在、日本は人口の減少という大問題を抱えている。人口の減少という深刻な問題の根本的な原因は「若者が幸せであるか否か」ということにかかっている。今の日本で若者たちは幸せなのだろうか。今の日本で、若者たちが安心して結婚して家庭を持ちたいと思うのだろうか。実は、幸せでない若者は結婚して家庭を持ち、子どもを育てようとしない。たとえ本能的にそれを願ったとしても、状況がそれを妨げている。
民族の繁栄と誇りとは、人口の増加という減少にあらわれる。今日の聖句は、それが神の祝福だという。

2015日々の聖句 07月23日(木)
たとえ闇の中に座っていても主こそわが光。(ミカ7:8)
キリストの言葉:わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。(ヨハネ12:46)
私の黙想:
今日の聖句の背景になっている状況(1節~6節)はなんという悲劇であろう。「息子は父を侮り娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これはありえない状況ではない。人間社会なんていうものは、ちょっと間違うとこういう状況になってしまう。秘密警察が人々の生活を監視し、隣近所の人々が疑心暗鬼で見張り、相互不信は家庭内にも入ってくる。それが現代における「戦争」の悲劇である。お互いがお互いの敵となる。これが今日の聖句の「闇の中」である。
詩人はその闇の中で一筋の「希望の光」を見出す。その光は、明るいところではほとんど誰も「光」とは思われない。そこに光があるということにも気付かないような微かな光である。しかし、その光は闇の中で輝く。闇が深ければ深いほど、その光は輝く。闇の中に住む人々はそこに希望を見出す。
キリストは光としてこの世に来た。しかし誰もそれに気づかなかった。しかしこの世が闇に覆われる時、いやそうではない、この世が闇だと気付いた時、その光が見えてくる。

2015日々の聖句 07月24日(金)
主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたがその怒りを翻し、わたしを慰められたからです。(イザヤ12:1)
キリストの言葉:わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。(ヨハネ6:37)
私の黙想:
「ヤハウエの怒りと慰め」、これが旧約聖書のける大きな波である。今日の聖句で目を引くのは「怒りを翻し」という単語である。これを口語訳では「怒りはやんで」、フランシスコ会訳では「怒りは収まり」、新改訳は「怒りは去り」と訳している。新共同訳以外はヤハウエの怒りを自然災害のように受け止め、台風が自然消滅するようなニュアンスが込められている。それが最も実感に近いのかもしれない。しかし新共同訳の「翻し」には「怒り」そのものに人格的なニュアンスが込められ、それが「やんだ」ことは自然に収まったというより、一種の意志の変更、怒っている者の「悔い」に近いものが感じられる。その意味では、一種の「神学的解釈」があるように感じる。

2015日々の聖句 07月25日(土)
主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。(1サムエル2:6)
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによって、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。(ヘブル13:20~21)
私の黙想:
ハンナの祈りの中のこの言葉は、神は人間の幸も不幸も、繁栄も没落も支配しておられるという意味の表現の一つとして、「主は命を絶ち、また命を与え」と述べている。決してキリストの復活論を予言しているわけではない。これをかなり強引に解釈して、イエスの死と復活を述べていると解釈したようだ。これがいわゆる「予型論」的解釈。
ハンナは「子を産めない女」として、あたかも「意味のない人間」であるかのように軽蔑され、馬鹿にされてきたが、今や男の子が与えられ、人間としての名誉が回復されたと言って神に感謝をしているのである。
今だに、こういう思想を抱いている人が国会議員になっているということは、何という人権意識の低さであろう。
聖書はこういう非人間的な思想に対する神の挑戦の書である。神は人間が軽蔑し、差別している人々を高く引き上げられる。それまで嘲笑していた連中を見返し、笑い返す。「笑い」といえば、アブラハムの妻も「子を産めない女」であったが、イサクを産んで馬鹿にしていた連中(アブラハムさえも含む)を見返し、「笑い返した」。イサクの名「笑う」という意味であった。

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